
#46 川口ゆりな(モデル・シンガー・俳優)
25年6月11日(水) 20:00
川口ゆりなさん(宮崎市出身)
(川口さん)
「色々な方が観て、”川口ゆりなって1つのジャンルじゃないよね”っていうような、
マルチな表現ができるような存在になりたいなって思います。」
5月3日、東京代々木で開催された、日本最大級のファッションと音楽のイベント
「Rakuten GirlsAward 2025 SPRING/SUMMER」
この会場に、今回の主人公・川口ゆりなさんの姿がありました。
川口さんは、2014年、中学3年生で国民的美少女コンテスト演技部門賞を受賞。
現在、モデル・俳優・シンガーとして活躍しています。
(川口さん)
「姉の大学進学にあわせて、東京に引っ越しの手伝いに行って、姉と一緒に原宿に遊びに行ったんですよ。
その時に、竹下通りで、今の事務所とは違う事務所さんにいくつかスカウトいただいて、
そこで初めて”芸能界って目指せる世界なんだ”って。映像の中の世界だったものが身近に感じられた瞬間でした。」
そして、母親の友人の勧めで、第14回全日本国民的美少女コンテストに応募し、見事演技部門賞を受賞しました。
(川口さん)
「いやもうなんか、嬉しいというよりも”なんで私が?”という疑問と驚きと...。家族は私以上に驚いていました。」
「(家族は)エントリーナンバーが呼ばれたときに、最初反応していなくて、誰も。
で、周りの親御さんたちが”ゆりなちゃん呼ばれてるよ!!”って言ってくれて”え!?”って感じで。驚いていました。
だから、家族みんな揃って”獲る”とは思っていなかったですね。賞を。」
当時、川口さんの受賞を一緒に喜んだのが、宮崎在住の友人、中井絢香さんです。
(中井さん)
「すごいね、っていうお祝いムードというか、おめでとうという感じではありました。
本選に出るってわかってからも、ジムにいったりしていたのですごい努力家だな~ってイメージはありますね。」
宮崎で2人がよく訪れた場所があったそうです。
(中井さん)
「(2人では)いろいろなところに行ったんですけど、特にプラネタリウムに癒されてに行っていました。」
(川口さん)
「そうですね、プラネタリウム大好きで。
宮崎科学技術館のプラネタリウムに、幼いころ母がよく連れて行ってくれてて。
今でも、帰省するタイミングで科学技術館のWebページ見て、
プラネタリウムの上映日、休館日とかをしっかり調べていっています。
でも大体、お仕事で帰るときは休館日なんですよ・・・。」
今年で15周年を迎えたガールズアワード。
今回は川口さんをはじめ、およそ300人のモデルやアーティストが集結。
ランウェイでは、人気ブランドの最新トレンドを紹介。
さらに、人気アーティストのライブなども披露されました。
その姿を一目みようと、この日はのべ1万9200人の観客が会場へ。
その中には、もちろん川口さんのファンの姿も。
Q.川口さんの魅力は?
(ファン)
「”完璧”です。全部が完璧です。
スタイルもですし、ファンをやっぱり一番に、大切に思ってくれているので、私たちも大切にしているんですけど、
ゆりなちゃんも大切にしてくれているんだなと思うと、嬉しい気持ちになります。」
(ファン)
「可愛いところですね。
インスタとかで、洋服とか私服とか載せてることが多くて、そこがすごい参考になります。」
川口さんにとって大きな転機となったのは、2021年に参加したオーディション番組「Girls Planet 999:少女祭典(ガルプラ)」でした。
第1回個人投票では全体1位になるなど奮闘しましたが、惜しくも合格には届きませんでした。
しかし、そこで多くのことを学んだといいます。
(川口さん)
「やっぱりオーディション番組ってサバイバル番組なので、自分の意思をどんどん前に出していかないと、
誰もそれを助けてくれないしサポートしてくれないし、むしろそれを出していかなかったらどんどん埋もれていってしまう。
っていうのを、身に染みて感じて。」
「失敗があるからこそ成長があるし気付きもあるし、自分を見つめ直せるし、
結局それで失敗じゃなくて自分の成長につながる、糧になるんだなと気付いて。」
「怖がらないことをガルプラで教えてもらったなと思いますね。」
オーディションの経験を活かし、帰国後シンガーとしてソロデビュー。
さらに去年公開となった映画「カーリングの神様」では俳優としての才能も発揮しました。
(川口さん)
「ガルプラをきっかけに、自分のやりたいことだったりとか、してみたいこと挑戦してみたいことというのを、
マネージャーさんはちょっとうるさいよと思っているかもしれないんですけど、結構頻繁に伝えるようにしていて。
その中で音楽・お芝居・モデルというのは私全部やりたいんですね。
で、全部やりたいし、今やらせてもらえている環境が本当にありがたいし嬉しいし。
でもやっぱりどんどんどんどんステージアップしていきたいし、という欲もあるので。」
そんな川口さんの新たな挑戦が―――ミュージカル。
大人気の韓国ドラマ「梨泰院クラス」がミュージカルとなり、川口さんはヒロインを演じることが決まりました。
(川口さん)
「やっぱり、これまでやってきたことが繋がってきたこともあるけど、8割全く違うベースで動いているものなので、
そこが難しくもあり、新鮮だからこそ”やってやるぞ!”っていう負けず嫌いなところが出てきたりして。
楽しみながら取り組ませていただきますね。」
―――
Rakuten GirlsAwardで同じステージに立った鶴嶋乃愛さんに、川口さんの印象をききました。
おふたりは同じ事務所。
(鶴島さん)
「(川口さんは)人の人間性とかを深く見てるタイプの子なので。
でも、一度こう”素敵だな”とか”尊敬”できるなとか思ったことがある方々に対しての愛の向け方が本当に深くて。
私もそれを受けている一人なので、それをなるべく共有したり、返しあえる関係性でいたいなっていう。
尊敬できる存在でもあるし、日々助けられているし、愛してるよって(いつも言い合っています)。」
―――
いよいよ川口さんのランウェイです。
本日はROYAL PARTYさんのコーディネート。
(川口さん)
「ポイントは、このグレーのワントーンコーデ。
統一された、クールでもありつつ綺麗感もあってこなれ感のあるコーディネートが好きだなと思います。」
「(顔につけた)涙みたいなラインストーンがかわいいです!」
「クールめの、笑わないステージの方が普段多いのですが、
今回はROYAL PARTYさん、”笑顔で”というイメージコンセプトがあったので、
笑顔で、ちょっとレアな雰囲気で歩けて嬉しかったです。」
益々の活躍をみせる川口さんに対して、小学校からの友人、中井さんは...
(中井さん)
「(川口さんは)ストイックだし、真面目だし...。真剣に、熱意を持ってやっている感じがすごいあります。」
“お~い!元気しちょる?”
宮崎の中井さんから、東京で頑張る川口さんへ、KIRISHIMA No.8と宮崎ギフトの贈り物。
初めてみる「KIRISHIMA No.8」に驚きと期待の様子。
(川口さん)
「どんな味なんだろう、気になります!!家族と飲みたいと思います♪」
「辛麺と地鶏とチーズ饅頭、これは帰省したら絶対空港で買って帰ります!」
中井さんからのビデオメッセージからパワーをもらったという川口さん。
(川口さん)
「こうやって、近くでも応援してくれてる子がたくさんいるので、
そういう方たちの気持ちにも応えられるような活動をお届けできるように、
これからも頑張ろうと思います!」
「宮崎の皆様!
私がすごく心が落ち着く、大好きなふるさと宮崎。
またお仕事でも、プライベートでも帰ってこられるように頑張ります!
これからも川口ゆりなはどんどんどんどんもっともっとステージアップしていきますので、
応援よろしくお願いいたします~!」

#45 杉山歩(アーティスト)
25年5月7日(水) 20:00
杉山歩さん(宮崎市出身)
(杉山さん)
「いつもその時に、自然から感じたものを絵にしていくんですけど、
深く自分が考えて感情で描くというよりは手が動くままに描くような感覚で描いています」
東京、港区・表参道で現代アートを中心に扱う「YUGEN GALLEY」。
東京と福岡の二ヵ所で、国内外で活躍する新進気鋭のアーティストの作品を展示しています。
ここに展示してある作品を描いたのが、今回の主人公、杉山歩さんです。
杉山さんの作品は、一見、植物などをモチーフに描いたようにも見えますが、実は...
(杉山さん)
「特定の何かの植物を描いているというわけではなくて、
例えば今の時期だと風の揺らぎだったり、気温の暖かさとか、花の香りとか...
そういった目に見えない部分の”ゆらぎ”を表現して、植物のようなモチーフで描いています。」
杉山さんは、宮崎市出身。現在は、東京を拠点に活動しています。
高校時代は宮崎でモデルなどの活動をし、卒業後上京。
上京後も、フリーのモデルとして活躍していましたが...
(杉山さん)
「結果的には、フリーでお仕事をいただきながら活動していたんですけど、
なんとなく自分の中にある何かが出しきれていない感覚というのがすごいあって、悩んだ時期もありました。」
モデルとしての活動に行き詰っていた杉山さん。
そんなときに、相談相手になっていたのが―――
(杉山さん)
「高校の友達の優美に、すごく色んなことを話して相談していました。」
―――
杉山さんの高校の同級生で、親友の松田優美さん。
都城でお話を伺いました。
(親友・松田さん)
「(杉山さんとは)結構ふざけあったりすることも多かったので、楽しい時間を過ごしていました。」
社会人になってからも定期的に会って近況を伝えあう中で、
松田さんは、杉山さんが悩みを抱えていることを感じていました。
(親友・松田さん)
「私から見て、(杉山さんが)”何が頑張りたいのかなー”って思った時があったので、
”今、何が一番がんばりたいの?”っていう話をしたことがありますね。」
そんな松田さんは杉山さんにとってかけがえのない存在でした。
(杉山さん)
「お互い話すことでモチベーションにつながったりとか、よし頑張ろう!って思えるような友達だったので、
(松田さんと)話すだけでも気持ちが楽になるというか。」
そして、杉山さんがたどり着いた先が―――
(杉山さん)
「モデルとしての活動もすごく達成感があったり、色々な刺激もあったりして、やっぱり元々やりたかったことでもあったので、
すごい楽しみながら色んなお仕事をさせていただいたりしていたんですけど、
やっぱり自分の中に表現しきれてない何かが眠っている感覚みたいなのがあって、たどり着いたのが絵でした。」
独学で飛び込んだ、絵の世界。
杉山さんの原動力となったのは、懐かしいふるさと宮崎の自然でした。
(杉山さん)
「幼少期に、周りに田んぼがあるような環境で育って、
やっぱり東京に出てきた時に、自分の生まれ育った豊かな自然のある環境を思い出すタイミングが結構多くて...」
宮崎の自然から感じ取ったものを絵に書き残しているんだそうです。
―――
さらに、絵の他にも杉山さんが才能を発揮しているものがありました。
それは、生け花。
杉山さんは現在、一葉式いけ花で学んでいて、講師の資格を持っています。
昨年11月に東京で行われた「宮崎市制100周年記念ふるさと交流会」でも、生け花パフォーマンスを披露しました。
(杉山さん)
「イベント自体が”宮崎市制100周年”という記念すべきイベントだったので、
宮崎の市の象徴ともなっている”太陽”と”みどり”をテーマに、自分が幼少期によく行っていた海の景色だったり、
みどりとか太陽とかが輝き合っているような景色をイメージして生け花をさせていただきました。」
杉山さんの生け花の師匠、粕谷尚弘さんに話を伺いました。
(華道・一葉式いけ花 家元・粕谷さん)
「すごい真面目にやってくれていてますし、一生懸命さが伝わってくるようなことをいつもやってくれていますね。
生け花って、知ってもらえさえすれば、絶対面白いんですよね。それを多くの人に知ってもらいたい。
そういう意味では本当に(杉山さんに)活躍していただいて、生け花をたくさんの人に知っていただけるといいなと思いますし、
いろんな人の見本とかインフルエンサーになれるような方だと思いますので期待しています。」
絵と生け花。
杉山さんは、この二つを組み合わせて展示を開きました。
個展を開催したギャラリーの担当者からは―――
(YUGEN GALLERY・大塚さん)
「YUGEN GALLERYでは、”生け花と油絵”の個展というのを初めて開催しておりまして、
杉山さんの描く植物の細部には繊細さが感じられ、その中に日本の伝統的な自然観が宿っているという風に感じています。」
宮崎にいる親友・松田さんも、個展に足を運んだそうです。
(親友・松田さん)
「展示会には2回くらい行ってるんですよ。直接行って(作品を)感じると、やっぱり嬉しい気持ちになりました。」
「自分の部屋に飾りたいと思いました。」
―――
東京・港区赤坂にある日本料理店「かさね」。
ミシュランの一つ星を獲得したこともある名店です。
(杉山さん)
「私が上京してきたのが19歳の時だったんですけど、当時からずっとお世話になっていて。
大将も宮崎出身で。もう11年くらいになりますね。」
大雪の日にパンプスとミニスカートで訪ねてきた杉山さんに衝撃だった大将・柏田さん。
以来、杉山さんは、大将や女将さんとは家族同然の付き合いを続けています。
(杉山さん)
「何も知らないところから色んなことを教わって...
かさねでも、絵や器を季節ごとに入れ替えていくんですけど、そのたびに色んなことを教えていただきました。」
”お~い!元気しちょる?”
親友・松田さんより贈られたKIRISHIMA No.8で、かさねの大将と女将さんと乾杯!
(杉山さん)
「すっきりしてて飲みやすいです。」
(大将・柏田さん)
「これだったら優しいから、普通の前菜でも美味しくいただけそうですね。
普通よく地鶏とか言うんですけども、優しいお料理で大丈夫ですね。和食にぴったりだと思います。」
―――
杉山さんのこれからの展望は?
(杉山さん)
「日本国内はもちろんなんですけど、海外の展示というのがまだ経験がないので、
絵とお花で国外でも活動できるように頑張っていきたいと思います。
あと、やっぱり宮崎出身として、宮崎でも展示ですとか、色々な機会をいただけるように頑張りたいと思います。」
杉山さんの個展は福岡でも開催されます。
2025年6月28日(土)~7月10日(木)
会場:YUGEN Galley福岡
ぜひ足を運んでみてくださいね。
「宮崎の自然に、乾杯!!」

#44 堀之内礼二郎(映画プロデューサー)
25年4月2日(水) 20:00
堀之内礼二郎さん(都城市出身)
今年2月。ある映画の舞台挨拶が宮崎市でおこなわれました。
その映画のプロデューサーが、本日の主人公、堀之内礼二郎さんです。
(堀之内さん)
「苦労して作った映画を、この宮崎県で上映できることが本当にうれしいですし、
宮崎の人々の心にもきっと届く作品だと信じて作っていますので、ぜひ多くの方に見て頂きたいなと思っています。」
堀之内さんが手がけた映画とは―――
映画「港に灯がともる」
阪神・淡路大震災の年に生まれた在日コリアン3世の灯(演:富田望生さん)が、心に傷を抱えながらも自分・家族・神戸の街に向き合っていく物語です。
撮影はすべて神戸でおこなわれ、震災から30年たった今年1月17日に全国で公開されました。
―――
取材当日、堀之内さんに連れて行っていただいたのは、兵庫県神戸市の灘丸山公園。
ここで、映画「港に灯がともる」のメインビジュアルを撮影したんだそう。
(堀之内さん)
「すごいいい景色で、、、。大好きな景色です。」
神戸の街に思いを馳せながら、堀之内さんのこれまでを伺いました。
元NHKのプロデューサーとして、人気の朝ドラ「カムカムエヴリバディ」などを手がけた堀之内さん。
映像の世界に興味を持ったのは、身近な人の影響でした。
(堀之内さん)
「父が本当に映画やドラマが大好きで、(小さいころ)一緒にレンタルビデオ屋さんに行って”何か観たいものあるか?”と借りて、一緒に観せてくれたりして。その中で自分の映像感覚だったりとか、フィクションだったり映画を作るっていうことを、すごく魅力的だなと感じたというのは、やはり原体験だったんじゃないかなというふうに思います。」
―――
堀之内さんの父、芳久さんに話を伺いました。
芳久さんは、堀之内さんの地元・都城市にある建設会社を営んでいます。
(父・芳久さん)
「(礼二郎さんは)手のかからない子でしたね。優しい子でした。僕は彼が作るドラマは好きです。
今回の映画もそうですけど、、、”弱者”ですよね。”弱者”に対してのあったかい目線をもったというのが、彼の優しさなんじゃないかなと思います。」
映画「港に灯がともる」は、堀之内さんが独立後、初めて世に送り出した映画です。
(堀之内さん)
「派手な映画じゃないんです。ただ、この映画でしか触れられない心の部分がある、そんな映画だろうなと思ってて。」
―――
神戸市長田区。
堀之内さんはNHKを退職後、映像プロダクション「ミナト・スタジオ」に所属し、神戸を拠点に活動しています。
取材当日は、長田で活動する映像作家を訪ね、「港に灯がともる」のメイキングビデオ編集の立ち合い。
堀之内さんの印象を聞いてみました。
(映像作家・池田さん)
「例えば下町とかで、一般の人から”何撮影してんのや~”って話しかけられた時に(堀之内さんが)バーッと走って行って(対応して)・・・
(そういうのを見てると、堀之内さんは)誠実であり、丁寧であり、でも、情熱がある(人だと思った)。」
(堀之内さん)
「プロデューサーって何する人ですか?ってよく聞かれるんです。
やっぱりまだ一般的には馴染みのない仕事かなとは思うんですが、全部をずっと通して見ていくというのが、
プロデューサーの仕事であり面白いところなんじゃないかなという風に思います。」
企画の立ち上げ、資金繰り、撮影の準備、宣伝など、多岐にわたるプロデューサーの業務ですが、さらに今回の映画では、大切な役割がありました。
(堀之内さん)
「(映画の中で)お父さんと娘でぶつかり合うようなシーンとか、
実際に演じながら、演じる方々の心が傷ついてしまうような場面があって、
カットがかかっても現実に戻って来られないみたいな部分があった時には、
元に戻れるように時間をとりながら撮影を進めていきました。」
主演・富田望生さんのリアリティあふれる演技は、圧倒的な存在感を放っていました。
時には役に入ったまま、複雑な心境になることも。
(堀之内さん)
「心のケアが、この映画の大事なテーマだったので、そこの部分を、ちゃんと撮影をしている側も意識しながら撮影するということが大事だし、難しいところでした。」
―――長田で100年以上続く、丸五市場。
(堀之内さん)
「映画の、すごく大事な舞台にもなっていまして、震災の時に火事にあわずに被害を免れたので、色んな物資とか色んな助けをしたという場所なんですね。」
「長田という土地に住まわれている方はもちろん、近所の方々にとってはこの市場はすごく大事な場所なので、ぜひ映画のなかで描きたいと思っていた場所でした。」
丸五市場の中、そば飯のお店”いりちゃん”は、映画にも登場しました。
(堀之内さん)
「そばめしっていうのが長田のソウルフードにもなっていて、ぜひ(映画で)紹介したいと思いました。
やっぱり映画って、匂いとか味を伝えることができないので、こういった食べ物を出すことによって、
味だったり匂いだったりを想像させて”食べたいな~”とか”行ってみたいな~”と、
その場にいるような感覚になってもらうために、すごく効果的な食べ物なんじゃないかなと思っています。」
―――
堀之内さんの想いが詰まっているこの映画「港に灯がともる」。
実は、父・芳久さんは辛口の感想を伝えていました。
(父・芳久さん)
「僕はいまいち刺さりませんでしたね。
皆さんは、大変、褒めていただく方も非常に多かったんですけど、息子にも言いましたけど満足していないですね。」
「楽しい映画をたまには作れよと言ったとこでした。次はみんなにウケる映画を作ると言ってくれましたけど。」
(堀之内さん)
「ワンピースとか、ドラゴンボールとか、分かりやすくて明るくて派手なものを作ればいいのにと言われたんですけど、、、。
今回つくったものは、多くの方が楽しく観られるものではないかもしれないんですけど、弱っていたり、弱い立場にいたり、動けなかったりしている方々の希望になるような映画になればいいなと願いを込めて作ったものなんですね。」
”お~い!元気しちょる?”
父・芳久さんから、霧島焼酎のプレゼント。
(堀之内さん)
「(霧島焼酎)大好きなんですよ。
でも、映画の成功を祈願して、半年くらい一滴も(お酒を)飲んでないです!
今日は解禁したいなと思います。これで。」
堀之内さんから見た、父・芳久さんの姿とは―――
(堀之内さん)
「今回の仕事もですし、僕の仕事もずっと応援してくれて。
本当に僕にとっては大きな存在なので、いつか父のようになれたらいいなと思いますし、まだまだ全然届かない存在なんですけど、そういう大きな目標でいてくれて本当にありがたいなと思いますし、頑張ることが恩返しかなと思っています。」
堀之内さんが今後つくりたい作品を伺いました。
(堀之内さん)
「楽しい作品だったり、しっとりした作品だったり、いろんな作品をずっと長く作り続けていきたいなと思っています。
そういった作品を通じて、もっと世の中が優しい世の中に、いい世の中になれるような、そんなことを目指しながら、そんな願いを込めながら作品を作り続けて、届け続けていきたいなという風に思っています。」
「半年ぶりの霧島、美味しかったです!乾杯!」

#43 南大輔(居酒屋経営)
25年3月12日(水) 20:00
南大輔さん(都城市出身)
東京・飯田橋にある、活気あふれる飲食店。
軽快なトークで接客し、お客さんに笑顔をもたらす本日の主人公・南大輔さんは、実は元お笑い芸人なんです。
南さんが経営している飲食店は、居酒屋 飯田橋「あらた」。
本格讃岐うどんと地鶏料理が評判のお店です。
(南さん)
「ランチはうどんと定食がメインのお店で、夜は鶏料理がメインで、お刺身もそうですけど、コースメニューも2カ月に1回変えてます。」
食を通して笑顔を届ける。南さんの”あらた”な展望とは―――
―――
都城市山之口町のきんかん農園。
こちらできんかんの収穫作業をしていたのは、南大輔さんのご両親。
大輔さんは、南家4兄弟の末っ子なんだそう。
(父・茂博さん)
「今は水稲とキンカンがメインですね。」
幼少期の大輔さんについて聞いてみると・・・
(ご両親)
「4人男の子ばっかりだから、もうヤンチャでしたよ。すばしっこくて。」
「要領がいいというかですね、、、」
小さい頃から明るく活発だった大輔さん。
(母・絹子さん)
「小学校・中学校は野球、高校でバスケを始めたんですよね。」
高校時代はバスケ部。それと同時期に始めたことがありました。
(南さん)
「部活が終わった後に、ダンスを始めたんですよ。友達と。
それで、文化祭でちょっとダンスを披露するっていうのをやっていました。」
高校卒業後もダンスの道を希望するほど、熱中していたそう。
(南さん)
「専門学校でダンスをやりたいなって。そこまで考えたんですけど、
兄貴3人が就職しているので、僕だけっていうわけにはいかずに就職しました。」
大阪のガソリンスタンドに就職しましたが、夢は諦めきれずに専門学校へ入学。
(母・絹子さん)
「やっぱりダンスが好きだったんでしょうね。専門学校に行くって言って。
体育系のインストラクターの資格を取るって言って。」
(南さん)
「専門学校行って、アルバイトで居酒屋に入ったんですけど、
その系列店で働いていたアルバイトの男性が、当時大阪のNSCの25期で、
彼から一緒にやろうよ(って誘われた)。」
そこから、大阪で芸人としての活動をスタート。
しかし、思い通りには行かず27歳の時に上京し、ワタナベエンターテインメントの養成所に入りました。
(南さん)
「ワタナベの養成所を出た先輩と後輩がいて、その2人が組んでいたコンビの中に入ってトリオでやったんですけど。」
徐々にライブを中心に活躍するようになりましたが、それでも、生活は苦しかったそう。
(南さん)
「親に借金しながら、給料前とか1週間1000円くらいで生活するんで(大変だった)」
(父・茂博さん)
「30歳ぐらいまでにはもうケジメをつけて、続けるかどうかはっきりしなさいと言っていた」
お父さんの助言もあり、32歳で芸人を引退し、ずっとアルバイトをしていた飲食業界へ。
(南さん)
「東京に来ても、ずっと(アルバイトは)飲食だったので、そのまま働こうかなってなって。
芸人辞めてもう、すぐそのまま社員ですね。」
そのお店が、ここ、飯田橋「あらた」でした。
系列店の立ち上げなどに携わり、マネジメント力をつけた南さん。
コロナ禍で影響を受けた「あらた」を買い取り、2022年に独立しました。
(南さん)
「ありがたいことに、そのままの、この店の屋号と、スタッフも残りたければ継続して良いとの事だったので、スタートは結構スムーズにいけました。」
お店の名物、特大のから揚げが評判を呼び、ランチも大盛況!
夜は、刺し盛りや創作料理でファンを増やしてきました。
お店では、実家で作るキンカンやへべすの加工品も販売しています。
(南さん)
「親孝行もありますが、全然返せていないので...あとは、お米を月に100キロぐらい頼んでます。」
(父・茂博さん)
「まあ、頑張っているかなと。親の恩も ちょっとはわかってるかな」
お店の良さを常連さんに聞いてみると・・・
(お客さん)
「やっぱり南さんの人柄ですかね」
「ごはんがおいしい」
―――常連さんのお話を聞いていると、電話が鳴りました。
すると、南さんはお店の外へ・・・。
実は、近所にもう1店舗、姉妹店があるんです。
(南さん)
「(2つの店が)近いっていうのが一番のメリットなので。本当に出す理由っていうのはこの距離というか。」
2年前の夏にオープンした「Strada」(ストラーダ)。
和食の「あらた」とは違い、洋食がメインのお店。
生パスタミートソース専門店&鉄板ダイニングバーです。
店内には、芸人時代の仲間からの御祝いが飾られています。
その中には、ワタナベエンターテインメントの先輩、ハライチの澤部さんのお名前も。
(南さん)
「ランチはもう生パスタ専門でやっていて、夜はパスタも残しながら鉄板焼きがメインです。
今名物にしてるのは【和牛のタタキのカルパッチョ】ですね。」
「店舗が出来ることによって仲間が増えるし、お客さんも増えて、飯田橋という町の中で絡めながらできるし、仲間がどんどん増えていく方が僕はうれしいですね。」
実は、姉妹店「Strada」の店長を任されているのが、南家の三男、直也さん。大輔さんのお兄さんです。
(直也さん)
「お互いのことも分かっているので楽ですよね。信頼関係が最初から出来ているので。」
「(大輔さんは)明るいし常に前向きですね。」
営業終りに、スタッフとカンパイ!
スタッフのほとんどが、芸人時代からの知り合いが多いんだそう。
(南さん)
「(スタッフのみんなで)こんなのやろうかみたいな話はします。あとは、もう好きなことやってもいいって話をしています。自分で。」
今は、お弁当のデリバリーなど事業の拡大も考えているそうですが、
“あらた”な夢も広がったそうです。
―――
実は大輔さん、5年前に結婚。去年の5月には、愛娘の満月ちゃんが誕生し、父親になったのです。
(妻・梓さん)
「(娘ができて)元気に一生懸命働く気持ちが強くなったのではないでしょうか」
(南さん)
「この近隣に住んでいる子どもに、こども食堂的な感じで提供できる場所を作れたらいいなと(考えている)。
まあ、いつになるか分からないですけどね。」
両親からの贈り物やビデオメッセージを受け取り、笑顔がこぼれる南さんご夫婦。
(南さん)
「うちの両親は4人育ててますからね。恩返しできていないというか、返せていない部分も大きいので...
(今は)東京で仕事をしていますけれど、ゆくゆくは宮崎でもやれるんだったらやりたいなとか。
この「わけもん!」を見て、うちの会社で働きたいとか、独立して自分で飲食やりたいなっていう人とか、応募受け付けます!」
「僕もいろいろ挑戦して、新しいことをやっていきたいなと思っています。」

#42 牛谷朋也(北欧ヴィンテージ家具店オーナー)
25年2月5日(水) 20:00
牛谷朋也さん(宮崎市出身)
家具はいろんな国のジャンルとか、デザインのテイストっていうものがあるんですけれども、その中でも北欧のヴィンテージ―――デンマーク、スウェーデンだと、木材を使った家具が非常に多いので、
温もりのある、かつ50年60年たった木材の経年を楽しめるのにすごく惹かれましたね―――。
東京都三鷹市。
2016年にオープンしたBRICKS STORE。
ヴィンテージ家具を扱う、専門店です。
この、BRICKS STOREのオーナーが、宮崎市佐土原町出身の牛谷さんです。
お店に並ぶのは、主に1950~1970年代にデンマークやスウェーデンなどの北欧で作られたヴィンテージの家具。その洗練されたデザインで人気となっています。
中でも牛谷さんのお気に入りは・・・
(牛谷さん)
「ここのヴィンテージの中でも色々あるんですけども、できる限りデザインをおとした簡素なものをセレクトするようにはしていますね。」
「デザイン性が高いものもかっこいいんですけど、簡素なものを集めた方が、空間としては落ち着いて、飽きが来ずに長く使えるんじゃないかなというのが、僕の考え方です。」
お店の家具の中で、牛谷さんがおすすめしてくれたのは、
デンマークを代表する家具デザイナー、ボーエ・モーエンセンのイージーチェアとオットマン。
(牛谷さん)
「木部は全部削り直して、オイルを入れて仕上げ直しと・・・ファブリックの部分は中のウレタンを替えて、生地も張り替えて仕上げ直しをしたものですね。」
「ゆったりとしたサイズ感で、読書だったりとか、疲れて帰ってきてゆっくり掛けてくつろぐいだりとか、そういった使い方が合っているものです。」
幼少の頃から、インテリアに興味をもっていた牛谷さん。
高校卒業後、東京の専門学校でデザインを学び、ヴィンテージ家具の人気店「トランジスタ」に就職しました。
(牛谷さん)
「一番最初をさかのぼると・・・小学生の時に、夏休みの自由研究でフロアランプを作っていたというのがあって。そのころからインテリアには興味あって、高校や専門学校でインテリア業界に行きたいなというのがありましたね」
そんな牛谷さんを中学時代から知るのが、現在宮崎の高校で教鞭を執る、小野剛一さん。
(小野さん)
「(学生時代の牛谷さんは)全般的に手先が器用で、描くデッサンとかもすごく上手だなという印象があって。クラスの中でも、やはり上手だったので(学校に)張り出されたりとか、あったような記憶があります。」
「今は頻繁に会うということはないんですけれども、彼のインスタなどでメッセージを送ったり・・・。遠くにいるんですけど、距離感的にはすごく近く感じています。」
(牛谷さん)
「(学生時代)美術の授業はすごく好きで、絵はちょっと上手かったかどうか定かではないんですけれど、もの作ったり、図工だったりとか・・・美術の中でもレタリングだったりとか、そういうのは非常に凝ってやってたのは覚えていますね。」
独立後、牛谷さんが立ち上げたBRICKS STORE。
現在スタッフは牛谷さん1人なんだそうです。
(牛谷さん)
「現在僕は完全に一人でこの店を運営しているので、買い付けや修復もそうですし、撮影だったり、接客だったり・・・基本的には全部楽しんで仕事ができているかなというのはありますね。」
ヴィンテージ家具を扱う上で大切なのが、家具の修復作業です。
(牛谷さん)
「ソファーやイスの張り替えは専門の職人がいるので、そういったプロの方々にお願いしているんですけど、木部の修復は基本的に僕が全部行っています。」
「極端に綺麗にしようというよりは、”元の状態に戻してあげる”ようなイメージですね。で、且つ20年、30年と長く使っていただけるような仕上げの仕方をしますね。」
海外から買い付けたヴィンテージの家具は、傷んだ状態のものが多く、修復する必要があります。
牛谷さんは、工具などは極力使わず、手作業で修復をおこなっています。
(牛谷さん)
「半世紀以上経った木材なので、表面的にもカサカサして乾燥してしまっているものを、表面を荒い番手から細かい番手に替えて削って、まずは木部を整えてあげるという作業です。」
「最終的にはオイルとワックスを入れるんですけど、やはり木材なので乾燥が良くないので、そこに潤いを与えていくという作業です。そうすることで、また20年、30年と長く楽しんでいただくことになります。」
取材をした日、牛谷さんの元を訪れた男性がいました。
インテリアショップideotを経営する井出裕太さん。
牛谷さんが独立する前からのお付き合いなんだそう。
(井出さん)
「(牛谷さんは)まじめで、丁寧。一緒に釣りをやっているんですけど、釣りもまじめで丁寧。もちろん仕事も。」
井出さんが、牛谷さんに伝えたアドバイスとは―――。
(井出さん)
「愛じゃないですかね。お客様に対しても、モノ(家具)に対してもそうですけど、愛情を込めてないと、愛情は伝わらない。やっぱり愛が必要だなと思います。」
(牛谷さん)
「ずっと家具の修復などをしていると、周りが見えなくなっちゃうので、たまには(釣りなどで)外の世界というか、自然に癒やされる時間も欲しくなりますね。」
もうひとつ、牛谷さんが癒やされる場所があります。
それが、都内にある自宅。
(牛谷さん)
「家を建てるにあたって、一般的には家が出来てから家具を揃えていく流れになるんですけど、うちの場合はちょっと逆の手順で、家具を全部決めてから家の設計に入ったので、できるだけその家具と家のバランスを取りたかったというのは大きいかもしれないですね。」
自宅の家具はすべて牛谷さんがチョイスしたもの。
こだわりの北欧ヴィンテージです。
(牛谷さん)
「基本的に天井が高いので、それを活かして家具は比較的低めに全部おさえて、空間の広さを際立たせようという考えはありますね。」
「3人家族なんですけど、ゆったり使えるような空間にしています。」
牛谷さんのご自宅は、雑誌等にも取り上げられています。
(井出さん)
「私も実際に雑誌を買って、彼が活躍しているところを見たり、今、自宅を出しているというところもあって、”こんな家建てたんだ”、”すごいな”というような気持ちで、いつか僕も彼がリメイクした家具を買えるようになれたらいいなという風に思っています。」
”お~い!元気しちょる?”
親友・井出さんからの贈り物・霧島焼酎を、牛谷さんのお気に入りの場所で・・・。
(牛谷さん)
「また宮崎に帰った時に、(井出さんと)一緒に話したりお酒を飲んだりしたいですね。」
今後の展望を伺いました。
(牛谷さん)
「実は、(独立時に)東京で活動していくのか、宮崎で活動していくのか、というのはやっぱり迷った時もあったんですね。宮崎で物件を探したりとかも、過去にはあったんですけど・・・まあ、ゆくゆくは宮崎でもなにか活動ができれば嬉しいですね。」
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