#52 吉原馬雀(落語家)

お~い!元気しちょる?

25年12月3日(水) 20:00

吉原馬雀さん(宮崎市出身)

 

 

(吉原馬雀さん)

「着物を着た人間が一人で、何の舞台設備もなくおしゃべりをする。

 それで、いろんな世界観をお客様にお伝えして、それが伝わるんですよね。可能性がある芸事だなと思いますね。」

 

東京、池袋。

宮崎市出身の落語家、吉原馬雀(よしわら・ばじゃく)。

 

 

現代の風景や世情を汲んだ創作落語を得意としています。

 

大学卒業後、27歳で落語の世界へ足を踏み入れた馬雀さん。

三遊亭天歌として活躍していましたが、当時の師匠とのトラブルが原因で活動休止を余儀なくされました。

その後、現在の師匠・吉原朝馬さんに再入門して、今年9月に念願の真打に昇進しました。

 

(馬雀さん)

「私一人では、多分、今こうやって真打興行はできていないですね。

 やっぱりお客様の声、そしてなにより、私をまた噺家として拾ってくださった今の師匠である吉原朝馬のおかげ、

 そのほか、業界関係者いろんな方に心配していただきましたけど、助けていただきました。」

 

今年の9月から、都内5か所で真打披露の興行をおこなっている馬雀さん。

この日は池袋での興行なのですが...取材陣との待ち合わせ場所はカラオケボックス!?

 

(馬雀さん)

「落語家の稽古っていろんなタイプがあると思うんですけど、私の場合は、ウチだとご近所に迷惑がかかるので、

 ちゃんと声出してお稽古するときにはカラオケに来るんですよね。結構いると思いますね。こういう噺家さんは。」

 

 

  落語家は―――。

 

  まず、修業期間の【前座】から始まり、その後【二ツ目】に昇進。

  そして最後に【真打】となり、寄席のトリを務めたり、弟子をとったりすることもできるようになります。

 

 

練習が終わって、池袋演芸場へ。

 

(馬雀さん)

「基本的には、一流の人たちが出演をされて、うちの師匠も出ますし。

 特別なプログラムの披露口上というものがありまして、それは幹部のみなさんが私の人となりとか、

 これまでの経歴を紹介してくれるんですけれど。」

 

披露口上。落語家が真打に昇進した際に行われる重要な儀式です。

この日の披露口上には師匠も出演し、弟子の門出を祝います。

 

(吉原朝馬師匠)

「(馬雀さんと付き合って)2年経ちますけど、だいぶ変わりましたよ。落語が。

 声もすごく出るようになったし、明るくなったし。期待しております。」

 

朝馬師匠の期待の言葉に、柔らかくも身の引き締まる表情の馬雀さん。

 

そして、馬雀さんを応援する声は、ここにも―――。

 

 

この日の寄席の高座に掛けられていた後ろ幕。馬雀さんの真打昇進祝いとして贈られたものです。

 

贈り主は、馬雀さんと中学高校で同級生だった伊藤麻子さん。

伊藤さんは、同級生たちと「吉原馬雀日向学院後援会」を結成しました。

 

(伊藤さん)

「今までの努力が実を結んで、同級生として嬉しいな、誇らしいなと思っています。」

 

馬雀さんが落語家を目指すきっかけとなったエピソードを教えてくれました。

 

(伊藤さん)

「当時の担任の先生がラジカセを持ってきて、みんなで落語を聞こうという日があったんですよね。

 馬雀さんも一緒に教室で落語のテープを聞いて、それがきっかけで落語に興味をもったと聞いています。」

 

(馬雀さん)

「それまでの私の中での落語というのが、ちょっと古い、名人の落語ばっかり車から聞こえてくるような、

 そういう環境だったので、(教室で落語をきいて)こういう面白い落語があるのかっていう。

 それがファーストインパクトでしたね。」

 

―――

 

取材当日の披露口上には、馬雀さんを見守ってきたファンも駆けつけました。

 

(ファン)

「彼が前座から二ツ目になるくらいの頃から噺をずっと聴いていて。あんまり上手くはなっていないですよね(笑)

 だけれども、一生懸命さが全然変わらないし、本当に彼は落語が好きなんだなって、そんな気がします。」

「飲み屋さんの二階で小さな落語会をやっていて、その頃から応援していました。

 いつかは、という気持ちがあったので、今日ここに来られて本当にうれしかったなあと、心から思っています。」

 

(馬雀さん)

「お客さんに支えられてこその商売だなというのを、大変痛感しましたね。

 お客さんとの呼吸をどう合わせようかなというのがすごい課題だったんですけど、

 細かいギャグとかもすごい笑っていただけたので、ありがたかったなと思います。」

 

―――

 

新宿の飲食店「宮崎みやこんじょ」。

 

この日は、馬雀さんのことを良く知る先輩・柳家さん花さんと、後輩・桂南楽さんとお食事です。

 

 

(柳家さん)

「(馬雀さんは)まじめだったから。いい意味で。なんか、楽屋でしくじると高座の裏を走っていって

 『俺のバカ!』って言って自分を殴ってたから、すごいなあ!と。」

(桂さん)

「大変なこともあったじゃないですか。その中でも真打になって、いろんな人に祝福されて。

 兄さん(馬雀さん)の人柄なんだなって。」

 

桂さんは宮崎市出身。

来年の1月18日に宮崎市民プラザで開催される【吉原馬雀 真打昇進披露】に桂南楽さんもご出演されるんだそう。

 

 

 

”お~い!元気しちょる?”

 

 

宮崎から馬雀さんを応援する、伊藤さんからの贈り物。

 

 

そして、伊藤さん、日向学院の田村校長、当時の担任・濱田教頭3人からのビデオメッセージも。

 

3人の激励に思わず笑顔の馬雀さん。

 

(馬雀さん)

「(授業で落語のテープを流した)濱田先生は、私が落語家になったことに対して

 若干責任を感じている部分も感じましたけど(笑)

 とにかく元気に頑張っていますので!おかげ様です!ありがとうございます!」

 

最後に、宮崎の皆さんにメッセージ。

 

(馬雀さん)

「普段は東京で落語をしておりますけれども、年に4、5回くらいは宮崎に戻って、

 公民館や小さな会場で巡業させていただいております。

 宮崎の人にとって身近な存在になれるような落語家を目指しておりますので

 これからも応援よろしくお願いいたします!」

 

#51 藤岡寛生(寿司職人)

お~い!元気しちょる?

25年11月12日(水) 20:00

藤岡寛生さん(宮崎市出身)


鮨。厳選された魚貝と職人の技が光る繊細なシャリが織り成す、芸術とも言われる日本の食文化の象徴は、
国内はもちろん、世界から注目される、ジャパニーズフードです。


東京、銀座。
日本で最も地価が高いエリアとして知られるこの街のビルの一角に、一軒の寿司店があります。
「鮨 ふじおか」

店主を務めるのは、宮崎市出身の32歳、藤岡寛生さんです。



(藤岡さん)
「今年の12月で(開店して)丸2年になります。」
「今年は秋刀魚がすごくいい年なので...。(今は)秋の食材を使っているので、秋刀魚や鰆...。
 あとは、宮崎で魚をやっている友達がいるので、その友達から仕入れたイシガキダイ。
 地元に帰って食べたときにお寿司屋さんで食べて、美味しかったのでちょっと使ってみようかなと。」

店内は、カウンター8席のみの完全予約制。
営業は土曜のランチタイムと、夜6時・夜8時からの一斉スタート。
おまかせで提供されるその鮨を求めて、国内外の客が訪れます。

(藤岡さん)
「シャリの温度の変化というのを握りに取り入れていて、
 中心70度くらいの熱い温度帯のシャリから握っていくんですけれども、熱い。
 普通だと人肌くらい、36~40度くらいのシャリが、東京江戸前鮨では主流なんです。
 そこをちょっと高めの温度帯で、且つ食材にあわせて、握りの温度帯を決めている、ということです。」

握りや甘味には、ルーツである宮崎の要素も取り入れています。



(藤岡さん)
「”地元がある”というのは、お店をやるうえで強みになると思うので、
 そういった点でも(宮崎のものを)積極的に取り入れていて。
 最後にデザートでお出しする卵焼きも、飫肥の厚焼き卵という、伝統として残っている卵焼きがあるので、
 それをアレンジしたというか。
 あと、今手に持っているこれがへべすなんですけど、宮崎の柑橘といえば日向夏かへべすというところなんで。
 地元に帰った時に、実際に食べて美味しかったものを、これってどうなんですか?ってきいたりとか。
 結構勉強しに帰る部分もあるので。銀座という場所柄から、結構海外のお客様もいらっしゃるので、
 日本の方と海外の方と、まあ色んな国の方が最近多いですね。」

(中国からの客)
「とてもすばらしい、おいしいです!日本に来たら、いつも”おまかせ”。寿司を愛してる。」
(韓国からの客)
「ふじおかの寿司はパーフェクト。おまかせで食べるのは初めてだけど、すばらしい体験をさせてもらった。」
「日本に来たら、寿司は”おまかせ”をオススメするよ。」

―――

現在、スタッフは藤岡さんを含めて3人。

(藤岡さん)
「前に同じ寿司屋で働いていたことがあって。僕が社員で彼女がバイトだったんですけれども、
その時の接客でしたりお客様への気配りというのがすごく素晴らしくて。」

藤岡さんに憧れて弟子入りした男性も。

(弟子・建石さん)
「(若い師匠ですねというスタッフの問いに対して)・・・って言われているのをよく耳にします。(笑)」
「学ぶところがいっぱいありますし、憧れます。僕もこういう風になりたいなって。」

―――

翌朝、日本中から様々な食材が集まる、豊洲市場へ。

お店での白衣とはまた一味ちがった印象の私服で登場した藤岡さん。

(藤岡さん)
「普段はこんな感じなんです(笑)」


藤岡さんは、高校卒業後すぐに東京の老舗寿司店に弟子入りしました。

(藤岡さん)
「東京慣れました。もう14年住んでいるので。
 でもやっぱ、東京に出たからこそ、宮崎の良さが分かるというか。食べ物もそうだし、場所柄も人の温かさも。」

ネタが味を大きく左右する寿司の世界。
向かったのは、江戸前鮨の花といわれるマグロの専門店、結乃花。

(藤岡さん)
「シャリもそうなんですけれども、(ネタも)温度で魚の香りをたててあげたり、お酒の香りをたててあげたり。」

結乃花の井手社長と話しながら見定める藤岡さん。
百戦錬磨のプロが集う豊洲での仕入れには、確かな知識と信頼が必要です。
高いレベルの寿司を出すには、魚の知識も欠かせません。



(藤岡さん)
「結構楽しいですね。やっぱり魚によってどこをみるかが違うので・・・。
 例えばサバだったら、尻尾の厚みで判断したりとか。秋刀魚なんかも、口の先端が黄色いのが、この時期一番
 脂を蓄えている証拠なので・・・。あとは首筋からかけた太さ・厚みなんかをみながら・・・。」

(大力商店・原田社長)
「(藤岡さんは)もう、素晴らしいです。若いのにね、銀座の一等地にお店構えられるんですから。すごいですよね。
 仕事も間違いないですよ。修行されたところも、やっぱりしっかりしたところなので。
 彼は人がいいから。やっぱり業者に可愛がられるタイプね。」

営業は夜から。
しかし、仕込みが命とも言われる江戸前鮨。
午前中には、店で準備を始めます。

(藤岡さん)
「(今仕込んでるのは)カスゴです。お湯をかけることによって皮目のゼラチンが溶けるので、
 それに冷たい風をあてて、冷まして、馴染ませて、そこからまたネタを常温に戻して、
 固め直したゼラチンがしっとりと仕上がるように。」
「食べるのは一瞬なんですけどね。その一瞬のために色々やっているという感じです。」



32歳ながら、銀座の一等地で店を構える藤岡さん。
そんな藤岡さんと、今でも交流のある人が、宮崎にいます。
高校時代、野球部で共に汗を流した、田原彰二さんです。

(藤岡さん)
「彼がいなかったら、僕は寿司屋になっていないかもしれないので。」
「中学生の時に、寿司屋になるか、理学療法士になるか迷った時期があって、寿司屋になるなら
 佐土原高校で野球に振り切ってやって、卒業と同時に寿司屋の世界に入ろう、でも理学療法士になるんだったら
 違う高校行って、勉強と野球両立しながら大学進学したいなというのがあったんですけれども、
 彼にオープンスクールの時に会って、一緒に野球したいと思って(佐土原高校へ進学しました)。」

田原さんには、学生時代の藤岡さんの忘れられないエピソードがあるそう。

(田原さん)
「修学旅行の時に、僕は違う班だったんですけれども、
 自由行動時間に藤岡が行きたかったお築地の寿司店に行って、そこで求人をもらったというのを聞きました。」
「そこから、みんなに、寿司職人を目指すと言っていました」

(藤岡さん)
「どうしても東京で修行したいというのがあったので、履歴書を持って、築地のお寿司屋さんに飛び込みで。
 坊主頭の学ランの生徒が5人カウンターに座るっていうのが異常な空気感だったので、
 ”えっ?大丈夫?”みたいな感じだったんですけれども。」
「お話をさせていただいたら、”じゃあ面接するから来年おいで”ということで、次の年に面接に行きました。
 今思うと、”よくやったな”と。よく臆せず飛び込んだなと思います(笑)」

そしてついに高校卒業後、老舗の「築地寿司清」へ就職しました。

周囲に夢を話し始めたのは高校時代でしたが、実は、藤岡さんが寿司職人を志したのは5才のころ。

(藤岡さん)
「母が、学生時代にバイトしていた宮崎のお寿司屋さんに連れて行ってもらって、
 お寿司屋さんの大将に憧れて、この道に入ることになりました。」
「夕顔寿司っていうお寿司屋さんで、今は店は閉められていて今は無くなってしまったんですけれど、
 すごく面白い、お話の上手な方で、まちなかのお寿司屋さんなんで出前の準備もしながらすごくテキパキされてて
 5才の僕からみたらヒーローみたいな人で、この人みたいになりたいな~と思ったのがキッカケです。」

その後、六本木の「鮨悠」や銀座「佐たけ」などの名店で腕を磨いた藤岡さんは、30歳の時に銀座で店を構えました。


“お~い!元気しちょる?”


寿司職人の道に進むキッカケをくれた友人・田原さんからの贈りもの。

(藤岡さん)
「あ~いいですね、本霧。こっちではなかなか呑めないので、僕も地元帰るたびに買って帰るので...最高です!」



(藤岡さん)
「握りの最後あたりに、味わいが濃くなってきた頃に、香りを立たせた(焼酎との)ペアリングも考えたいですね。
 宮崎のもので...へべすを搾っても、ニュアンスとしては良いのかなと思うので。」

田原さんからのビデオメッセージに笑顔の藤岡さん。

―――東京、銀座。
寿司店が150軒以上あるともいわれるこの場所で、今日も藤岡さんは世界を相手に鮨を握っています。

(藤岡さん)
「これだけ寿司屋がある中で、うちを選んでくださるということだけでもすごくありがたいことだと思うので、
 勝手に日本代表だと思って鮨を握っています。」




#50 SHURI(ダンス&ボーカルグループ/SPiN)

お~い!元気しちょる?

25年10月1日(水) 20:00

SHURIさん(宮崎市出身)

 

(SHURIさん)

「アーティストとして自分の歌声であったりとか、表情であったりとか、そういう一つ一つのことで、

 老若男女問わず一人でも多くの方の心に響く音楽を届けられる人間になりたいなって思っています。」

 

磨き上げた歌とダンスを武器に、アジア、そして世界へと羽ばたきます。

 

―――今回の主人公がいるのは、大阪。

宮崎市出身のSHURIさんは、2022年に大阪で結成された8人組ダンス&ボーカルグループ「SPiN」のメンバーです。

 

 

(SHURIさん)

「私たちSPiNは、日本文化やJ-POPのすばらしさを世の中に広めていきたいという思いで活動していて、

 ”SPiNというジャンル”を、大阪から世界へ届けたいって思っています。」

 

―――

 

SHURIさんは、7歳の頃から、宮崎市内のダンススクールに通っていました。

夢は、”歌って踊れるアーティスト”。

 

(SHURIさん)

「自分だけじゃなくて、周りにも同い年くらいの子たちがいて、その子たちと並んで踊ることの楽しさとか、

 鏡をみて踊ることも初めてだったので、いろんな、新鮮な気持ちだったりとか、音に乗ることの楽しさ

 って言うのをすごい感じてましたね。」

 

さらに、SHURIさんはMRTの番組にも出演していたんです。

 

 

(SHURIさん)

「(当時は)小学校3年生とかだったと思うんですけど、撮影のとき毎回緊張して、顔ガチガチみたいな。

 (スタッフに)”もうちょっと笑っていいよ~”とか言われていたのを覚えています。」

 

SHURIさんはその後もダンスや歌に熱中。

その当時、SHURIさんのライバル的存在だったのが、妹のMIKUさんです。

 

MIKUさんは宮崎市の『& DANCE STUDIO』でダンスのインストラクターとして、子どもたちにダンスを教えています。

MIKUさんは、姉・SHURIさんの影響でダンスを始めたんだそう。

 

(妹・MIKUさん)

「(ダンスを)お姉ちゃんがやっていて、おうちで練習とか結構していたんですけど、

 それを、自分も一番近くで見ていて、イベントとか発表会とか見ていくうちに、

 徐々にやりたいなという気持ちが沸いてきたのかなって思っています。」

 

二人は切磋琢磨しながら、宮崎でダンスを続けていました。

そして、SHURIさんは高校卒業後 大阪へ。SPiNのオーディションを受け、夢をかなえました。

 

(妹・MIKUさん)

「ダンスの面でも、お互い刺激しあえるというか、(SHURIさんは)自分にないところを持っているし、

 逆にお姉ちゃんにない自分の強みもあるし、多分、お互い高めあえる存在でもあるなと思っています。」

「あと、お姉ちゃんは歌ができるので...。自分は、やっぱりマイクをもって歌うというのはあんまり経験がないので… 

 やっぱりそこの面では尊敬という気持ちがすごく大きいかなと思います。」

 

(SHURIさん)

「やっぱりどうしても、姉妹だと、比べられることもあったりとか、自分自身も、”妹に負けたくない!”と思うし、

 妹も”負けたくない!”と思っていたと思うんですけど、それがいい意味でお互い高めあえる存在だったし、

 本当に夜遅くまで家のダンス部屋で夜中までずっと踊っていたりとか、鏡の取り合いみたいな感じで

 2人で練習していましたね。」

 

―――

 

取材当日、SPiNは地元大阪のライブスタジオ「Yogibo META VALLEY」で

ワンマンライブ【The SPiN World ~魂 tamashi~】を開催。

 

1人1人が、歌って踊れるというのが、SPiNの魅力です。

 

SPiNのメンバーに、SHURIさんについて聞いてみました。

 

(メンバー・YUUさん)

「SHURIの笑った顔が結構好きです。

 あと、歌声が本当に素敵で透き通った声なので、ぜひみなさんも注目してきいていただきたいです。」

 

(SHURIさん)

「私はもう、このSPiNというグループに人生を懸けているので、そういった意味では、この先の夢であったりとか、

 目標などを共に叶えて行く仲間であり、こう、ほんとうに毎日一緒に過ごしているので、

 宮崎を離れている分、家族以上に長く時間を共に過ごしているので、私にとっては大切なかけがえのない存在です。」

 

(メンバー・OTOHAさん)

「なかなかSHURIは普段こういうこと言ってくれないので(笑)今聞いて、私は嬉しかったです!」

 

この日のライブは300人。チケットは          SOLD OUTでした。

 

(ファン)

「最初は路上で見て、それから一気に惹かれて、ずっと通っています。」

「みんな個性的ですごいかっこいいです!」

 

ライブの1曲目は、昨年11月にリリースされた曲『M.I.J』。

 

(SHURIさん)

「(この曲は)”Made In Japan”を題材にして作られた曲なんですけど、

 私たちのSPiNというグループ名の”iN”の部分にはインバウンドという意味が込められていて、

 私たちの音楽であったりとかパフォーマンスを通して、世界に日本の素晴らしさを発信していきたいなと。」

 

 

歌声に定評のあるSHURIさん。

ソロ歌唱では中島みゆきの「糸」を熱唱しました。

 

(ファン)

「SHURIちゃんは、歌がめっちゃうまい!

 バラードに適しているというか...バラードをSHURIちゃんが歌っていると、泣きそうになるくらい、

 最高な歌声を持っていると思います!」

 

SHURIさんはこの日も、歌にダンスに、魂のこもったパフォーマンスを見せてくれました。

宮崎弁での挨拶をする姿も。

 

ふるさと宮崎を離れて活動を続けるSHURIさんに対し、妹・MIKUさんは―――。

 

(MIKU)

「上京してすぐは、気持ちの面でも結構やられてるっていう話はいろいろ聞いてはいたんですけど…

 ストレスもそうだし、慣れない環境であったり…。

 そういう中で、それを、1年、2年と段階を踏んで、1人の力ではないんだろうけど、すごい強い気持ちがないと

 普通だったら挫折して辞めちゃうっていう人もいる中で、上京しても強い意志を持って

 夢に向かって頑張っている姿がすごいなと思ってました。」

 

 

”お~い!元気しちょる?”

 

 

宮崎にいる妹・MIKUさんからSUZU KIRISHIMAの贈り物。

 

(SHURIさん)

「(SUZU KIRISHIMAのパッケージが)かっこいい・・・!和柄・・・!すごい、SPiNにぴったりですね。」

 

 

(SHURIさん)

「すごくすっきりしていて呑みやすいです!」

 

MIKUさんからのビデオメッセージに笑顔のSHURIさん。

これからの夢は―――?

 

(SHURIさん)

「SPiNとしての夢なんですけれど、来年のうちに、

 大阪・難波にあるZepp Osakaでワンマンライブを開催するという夢があります。

 でも、その先にはまだまだ大きい夢もたくさんあるんですけれども、そこを今は私たちの1つの通過点として、

 Zepp Osakaで絶対にワンマンライブをしたいです。」

 

「SPiNの明るい未来に向かって、乾杯!」

 

#49 河野凌太(俳優・モデル)

お~い!元気しちょる?

25年9月3日(水) 20:00

河野凌太さん(宮崎市出身)

 

(河野さん)

「自分が歩んできた人生ではない人生を、役として歩んでいかなくてはいけない。

 自分が今まで想像したこと無いこと、経験したこと無いことを演じるというのは、

 本当に難しいことではあるんですけど...」

 

様々なキャラクターの人生を演じる男性。その素顔とは―――。

 

―――

 

東京、秋葉原近くの撮影スタジオ。

モデル撮影をしているのが、今回の主人公、宮崎市出身の河野凌太さん。俳優、モデルとして活動しています。

 

 

現在、河野さんは、2.5次元俳優として活躍。

”2.5次元”とは、2次元のアニメや漫画等を舞台化したもので、

2次元と3次元の中間的な存在から2.5次元と呼ばれ、人気を集めています。

 

(河野さん)

「キャラクターのモノマネをするとか、そういうことじゃなく、”キャラクターに人間味をもたせる”という意味では

(普通の舞台と)一緒なのかなと思います。」

「ただ、見られる方が多い分、プレッシャーとかしんどさとかはどうしても付き物ではあるんですけど...」

 

 

河野さんは「WIND BREAKER」「ハイキュー!!」など数々の人気漫画の舞台に出演。

さらに、歌って踊るミュージカルや、身体能力の高さを活かした殺陣などのアクションにも才能を発揮しています。

 

―――

 

河野さんを宮崎から応援する人に話をききました。

宮崎北高校の陸上部顧問、稲垣徳文さんです。

 

(恩師・稲垣さん)

「(河野さんは)人前で何か自分を表現するというのは、もう本当に好きだったなと思いますね。」

 

実は河野さんは中学・高校・大学で陸上部に所属。

中学時代は全国3位になり、当時稲垣さんが顧問をしていた宮崎工業高校へ進学し、稲垣先生と出会いました。

 

(恩師・稲垣さん)

「”中学時代に全国入賞した”という生徒を初めてあずかったのが河野凌太くんたちで。

 ”高校でも入賞させなきゃ”という責任が自分でもありました。すごく感覚もいい子だったので...。」

 

しかし、怪我などもあり伸び悩んだ時期もあったという河野さん。

高校最後となったインターハイの110mハードル決勝は、6位入賞という結果でした。

 

(恩師・稲垣さん)

「本人はやっぱり日本一というのを目指していたと思うので、

 もうちょっとやりたかったなというのはあるかもしれませんけど、

 入賞できたというのは本人もホッとしましたし私も、彼が入学したときに”最低でも入賞”というのがあったので

 そこは果たせて良かったねと(思いました)」

 

(河野さん)

「本当に、練習もそうですけど、試合も。先生がどこにいるのか分かるくらい、デッカい声で応援してくれるんですよ。

 中学高校の陸上してる時間は、当時はしんどかっただろうけど、今思えば本当に財産だし、

 やっててよかったなと思います。」

 

―――取材当日、河野さんは自身が出演する舞台の稽古に参加。

 

(舞台脚本/演出担当・原口さん)

「(河野さんは)すごい素敵な、真面目なというか。すごく将来が楽しみです。

 役柄的には保安隊という、戦う役なので殺陣・アクションは見どころだと思います。」

 

舞台では、アクションを期待されている河野さん。この日は納得いくまで殺陣の練習を続けていました。

 

 

(河野さん)

「”アクションができる人”ということで紹介いただいていたので、

 殺陣でご迷惑をおかけするわけにもいかないと思って。」

 

―――

 

レッスン室では、演者仲間と談笑する姿も。

 

(俳優・君沢ユウキさん)「元々アクションとかやってたの?」

(河野さん)「剣じゃないんですけど、実家が道場なので...」

(君沢さん)「え!?そうなんだ!?

       いや、思ったんですよ、俺の代わりに振付やってくださってて、斬り方がすごい綺麗でなめらかで。」

      「道場なんだ...!刀の道場?」

(河野さん)「(実家は)空手でした。なので武道はある程度...。」

 

また、共演者には、河野さんも出演している舞台「ハイキュー!!」を経験した先輩がいます。

 

(俳優・山口賢人さん)

「バレーボールの漫画の舞台を、僕が初演から7作品やらせていただいて、

 僕が卒業したあとに(河野さんが)「ハイキュー!!」に出られていて。」

「稽古が終わってお互い私服になって帰るときに初めて出会って、(河野さんが)下駄はいてて。(笑)

 ”下駄はいてるんですか!?”というのが初めての絡みだったんですけど、

 まさかこの作品になったらご一緒できるとは思っていませんでしたね。」

 

―――

 

稽古が終わったその夜。

河野さんは俳優仲間と一緒に、東京・豊島区にある雑炊専門店へ。

 

 

(河野さん)

「WIND BREAKERという舞台があって、さっきの稽古場でもお話したんですけど、

 下駄はいてる十亀条役の先輩の里中将道くんです」

 

 

河野さんは、里中さん演じる十亀条が下駄を履いていたのに憧れて下駄を履いていたそうです。

 

 

ふたりは、人気漫画の舞台で共演。当時、役者を続けることに迷いがあった河野さんでしたが、

里中さんからのアドバイスで迷いがなくなったそう。

 

(河野さん)「初めてメシ食いに行った時、鬼ネガティブでしたよね?」

(里中さん)「うん。めっちゃ。”俺全然できる気しないっす~”みたいな。”そんなことないって!!”って言って。

       ”自信持てよ!”みたいなことをすごく言って。」

      「たしかに、そう考えたらあの時からだいぶ変わったな。」

 

(河野さん)

「なんか(里中さんの言葉が)響いて。そこからマインドが変わりましたね。

 僕の役者としてもだし、人間としても、変えてくださったというか、支えてくれた先輩です。」

 

(里中さん)

「僕の誕生日の時もゲストで来てくれて。家から下駄で会場まで来てくれた人初めてだったから愛を感じましたし、

 俺の絵を描いてプレゼントしてくれて。家に飾ってるんですけど。嬉しかったですね。」

 

―――

 

恩師・稲垣さんも宮崎から河野さんのことを応援しています。

 

(恩師・稲垣さん)

「競技しながら、舞台役者の道も自分で始めていたので、そういう相談もずっと受けていたので、

 それを今、成し遂げてるので、すごいやっぱり信念もってやっていたんだなと、今思います。」

 

 

”お~い!元気しちょる?”

 

 

宮崎にいる稲垣先生から、霧島焼酎の贈り物。

合言葉は「マックスパワー」!!

 

(河野さん)

「宮崎工業時代、稲垣先生がずっと掲げてたスローガンがあって。それが”マックスパワー”。

 それこそTシャツとかにも書かれたりしていたんですけど・・・。

 あ~マックスパワーがこの歳でも聞けるとは・・・!」

 

―――河野さんのこれからの夢は?

 

(河野さん)

「宮崎の方に、生のお芝居がどれだけすばらしいものなのかを今後伝えていきたいし、

 俳優という職業を決してあきらめなくていいんだよ、夢を持ったっていいんだよということを

 僕よりも下の世代の子たちに自分がモデルケースとなって先陣きって伝えていけたらなと、

 背中を見せていけたら良いなと思います。」

 

#48 島田亮平(イタリアンシェフ)

お~い!元気しちょる?

25年8月6日(水) 20:00

島田亮平さん(宮崎市出身)

 

 

(島田さん)

「イタリア料理で日本のおいしいお魚を使って、お客様に届ける。それを徹底していきたいなと思っています。」

 

魚料理のスペシャリスト。

彼の作るイタリアンとは―――。

 

東京、港区にある日本一の超高層ビル、麻布台ヒルズ。

このビルの3階にある【ボガマリ・クチーナ・メディテラーネア】

東京屈指の、魚介専門のイタリアンレストランです。

 

ショーケースに並ぶのは、全国から集められたその日最高の魚介。

提供するのは魚料理だけ。お店には、こだわりの魚料理を求める食通たちが訪れます。

 

このお店の料理長を務めるのが、今回の主人公、島田亮平さんです。

 

 

島田さんのこだわりは、『日本の魚でつくるイタリアン』。

 

(島田さん)

「イタリアも行ったし、アメリカ、スペイン・・・。

 色々まわって感じたことが、日本の食材、お魚のレベルというのが、ものすごいトップレベルということで。

 全然違うなと思って。」

 

(ソムリエ/バリスタ・鈴木さん)

「彼自身本当に、お寿司屋さん含めて色んなお魚のお店へ行って勉強したものを、

 イタリアンをベースに表現しているので、この先僕たちもより楽しみというのはあります。」

 

島田さんは、宮崎県内の高校を卒業後、料理人になるために20歳のときに単身上京。

現在のお店の姉妹店でシェフとしてデビューし、2023年に現在のお店がオープンしたのを機に料理長を任されました。

 

お店の象徴ともいえるのが、島田さんが全国から厳選して仕入れた魚介が並ぶ、こだわりのショーケースです。

 

(島田さん)

「(店の食材は)宮崎からもきてますね。地元から。自分の兄が仕入れたものを送ってもらっています。」

 

―――

 

宮崎市の老舗スーパー、ショッピングのだ。

こちらで鮮魚を担当しているのが、島田さんの兄、佐藤揚太さんです。

 

佐藤さんは、宮崎で仕入れた魚を定期的に島田さんへ送っています。

この日東京へ送る魚は・・・

 

(兄・佐藤さん)

「アカヤガラです。よく弟がこれを使います。グリルにすると美味しいらしくて。

 これの大きいのが出た時は必ず買って送っていますね。」

 

 

この日は他にも、シブダイやマグロも東京に送ります。

 

(兄・佐藤さん)

「小さい頃は、自分が(弟・島田さんに)命令する側だったんですけど、もう今は逆になっちゃって。

 弟からの『この魚買って』に『わかりました!』みたいな感じでやってます。」

 

(島田さん)

「(兄は)怖い存在だったんで。ジャイアンみたいな。」

「僕が魚を扱い始めて、そういう(関係)のがちょっと変わってきました。すごいいい関係です。」

 

取材中に、お兄さんが送った魚が届きました。

 

(島田さん)

「いいですねこの(アカヤガラの)サイズ感は。なかなかないですよね。」

「彼も魚好きなんで、信頼がありますね。兄が持ってくる魚はおいしいみたいな。」

 

この日のアカヤガラはハーブローストに。

 

 

シブダイはどう料理するのでしょうか?

 

(島田さん)

「(このシブダイは)めっちゃいいですね。めっちゃ脂のってます。これはカルパッチョで出します。」

 

島田さんの得意料理で、お店の看板メニューでもあるカルパッチョ。

その日仕入れた魚の一番美味しいところを味わうことのできる一皿です。

 

(島田さん)

「お魚が一番活きる味わい(にしています)。ソースをいっぱいかけちゃうと(旨味が)死んじゃうし。

 素材を活かすというか。やっぱり良いお魚使っているからそうやって仕立てたいですよね。」

 

 

 

そして出来上がったカルパッチョはお客の元へ。

宮崎の魚のお味はいかがですか―――?

 

(お客)

「すごい脂がのってる」「こんなの初めて。」

「前回おいしかったのでぜひまた来たいと思って、知り合いを引っ張り出してきた。」

 

(島田さん)

「自分が作った料理でお客様に感動したと言ってもらえるのが一番嬉しいですかね。

 それがやりがいであり日々の楽しみでもありますかね。」

 

さらにこのお店では、他にはない変わった注文の仕方が人気なんです。

 

(島田さん)

「シチリアとかイタリアの港町はこういったスタイルで、自分が食べたいものを好きな調理法で食べられます。」

 

お客はショーケースの中を見て食べたい魚を決め、調理法などをシェフと直接相談。

 

 

この日、島田さんはお客にアカヤガラを使ったパスタを提案しました。

 

(島田さん)

「お客様と会話することで、エンターテインメントじゃないですけど、

 見て楽しい、話して楽しい、そこを演出出来たら、お客さんにとっても楽しいのかなと思います。」

 

アカヤガラのパスタ、お客さんの反応は―――?

 

(お客)

「白身魚の身がしっかり味がついていて、皮がカリカリしていてとっても美味しいです。」

「この店の中で一番気に入って美味しいです。」

 

(島田さん)

「ありがたいし嬉しいですね。兄にも連絡します。」

 

 

”お~い!元気しちょる?”

 

 

宮崎市にいる兄・揚太さんから霧島焼酎の贈り物。

 

(島田さん)

「(霧島焼酎は)宮崎ではしょっちゅう飲んでますね。」

 

 

お店のスタッフと一緒に、霧島焼酎で乾杯!

 

 

 

(島田さん)

「香ばしい香りもするし、旨味も強いですね。」

 

(スタッフ)

「美味しい。(味が)綺麗ですね。」「イタリアンの感じと合いますね。」「パスタとかにも。」

 

 

島田さんの、これからの夢とは―――

 

(島田さん)

「海外でお店を出したいというのがありまして。日本のお魚を海外でレストランとして届ける。

 将来的にはやっぱり独立したいですし、自分のお店を持ちたいというのはありますね。」

 

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