#41 坂梨亜里咲(企業家)
25年1月8日(水) 20:00
坂梨亜里咲(宮崎市出身)
今回の主人公・坂梨亜里咲さんは、6年前に女性用のサービスを提供するmederi株式会社を立ち上げました。
(坂梨さん)
「生理に悩む女性が、オンラインで産婦人科の先生に相談して、そのお悩みがピルで解決できるものだったらピルを処方して、最短翌日にご自宅にお届けできるサービスです。」
mederi株式会社で提供するサービス”メデリピル”は、女性特有の悩みに特化した医療サービスや薬の処方が、スマートフォン1つで受けられるというもの。
生理痛や、生理前の心と体の不調を改善できる”低用量ピル”。
これまでは、病院でしか処方されないものでしたが、オンラインで受診・処方できる画期的なサービスを生み出しました。
産婦人科の医師およそ40名と提携し、毎月5000人程度の女性の悩みに寄り添っています。
(坂梨さん)
「(利用者は)20代~30代の働く女性が多くて、やはり忙しくて産婦人科に掛かれない女性がオンラインで相談してピルを処方されているケースが多いです。」
―――
6年前、ZOZO TOWNの創設者である前澤友作さんがおこなった起業家への投資企画。
坂梨さんは4000人の候補者から選ばれ、mederi株式会社を設立しました。
優れた女性経営者に贈る賞を受賞するなど、女性リーダーとして活躍しています。
女性向けサービスということで、会社には女性ばかりかと思いきや・・・?
男性社員の姿もありました。
(取締役・大池さん)
「”女性活躍”っていう社会課題に対して貢献したいという考えの男性も多いですし、サービス自体の受け入れられやすさとかは、男性からみてもあるようには感じますね。」
「(坂梨社長は)熱量とかやりきる力とか、事業に向けるエネルギーとかも人一倍あるので、魅力的な社長なんじゃないかなと思います。」
そんな、”エネルギッシュ”だという坂梨さんは、宮崎市出身。
子どもの頃からモデル活動をおこない、高校生の時の夢はアイドル。
(坂梨さん)
「安室奈美恵さんに憧れていて、とにかくアイドルになりたかったです。(当時は)社長になりたいなんて一回も思ったことなかったですね」
当時の坂梨さんを知るのは、母校である宮崎南高校の那須校長。
(那須校長)
「坂梨さんは、文化総合課といわれる、現在のフロンティア課の2期生なんですよね。私はその文化総合課の副担任でした。」
宮崎南高校は、創立50周年を機に女子の制服をリニューアル。
なんとその際に着用モデルになったのが、坂梨さんでした。
(那須校長)
「(当時の坂梨さんは)あまり目立つ子ではなくて、どちらかというと目立つ子の後ろでついていくような(生徒だった)。ただ、決めたことには行動力がありましたね。」
持ち前の行動力を発揮して設立した会社。その背景には、自身の経験が活きています。
(坂梨さん)
「私が26歳のときから不妊に悩んでおりまして、トータル7年間、お金も時間もかけてきてもなかなか授かれないっていう経験をしたんですね。そこから、自分の中では、そういうことを学校で学ばなかったなとか、もっと早く知ればよかったという情報が非常に多くて、それを提供できるような事業をしたいというのが始まりで起業しました。」
7年間の不妊治療を経て、昨年、待望の女の子を出産。
現在は、子育てに奮闘しながら働くママです。
(坂梨さん)
「ずっと不妊治療をしていたので、生まれたときはすごい嬉しかったし、子どもの成長が著しいので、私も頑張って経営者として成長しなきゃなって、癒されつつ元気をもらっている感じです。」
そんな坂梨さんのポリシーは”行動力”
こんなところでも発揮しています。
(坂梨さん)
「(低用量ピルなどの良さをわかってもらうために)私たちだけが頑張っても全然浸透しないので、起業単位で賛同してもらって、一緒に活動していくことが大事だと思って(企業訪問を)はじめました。」
普段は個人を相手にしたサービスですが、最近では福利厚生としてmederiピルを導入する起業も。
坂梨さん自ら出向くこともあります。
今回訪問したのは、ドン・キホーテでおなじみの、株式会社パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス。
およそ2年前から福利厚生としてmederiピルを導入しています。
(PPIH取締役兼執行役員・二宮さん)
「月経によってパフォーマンスが落ちているのであれば、そこは会社ができるだけフォローしたいというメッセージが伝わればいいなと思っていますし、これをきっかけに女性自身が体のことを考えてキャリアプランを考えてほしいと思っています。」
働く女性の味方として寄り添うサービス。
ほかにも、多くの企業が興味を示しているんだそう。
(PPIH取締役兼執行役員・二宮さん)
「やはり起業されて、トップに立ってやられている方はすごく尊敬していますし、勇気と実行力がないとできないことだと思います。プレッシャーもひとりで抱えるものも多いと思うので...応援してます。」
―――
12月。都内の中学校に、坂梨さんの姿がありました。
この日は出張授業。およそ600名の生徒が、真剣に話をききます。
自身の経験から、少しでも早く自分の体について考えてほしいと授業をおこないます。
(坂梨さん)
「いろんな生き方があると思うんですけど、そのいろんな選択をする中での一つの参考としていつか思い出してもらって、”私はこういう人生を歩みたいな”って前向きに選択できるといいなと思います。」
(授業を受けた生徒)
「お話をきいて、もっと自分の事を考えてしっかり向き合っていこうと思いました。」
「成長は人それぞれだし、栄養バランスや適度な睡眠をとって、自分の体と向き合って行きたいなと思いました。」
(宮崎南高校・那須校長)
「社会の中で必要とされる人になってほしいというのは、やっぱり南高校の目標でもあるし、社会で活躍できるリーダーになるということは嬉しいですよね。」
”お~い!元気しちょる?”
恩師である那須校長より、坂梨さんへ霧島焼酎のプレゼント。
添えられた紙は、”宮崎南高校出身の著名人”をまとめたもの。
俳優の堺雅人さんやアナウンサーなどに並んで坂梨さんの姿もしっかりありました。
那須校長のビデオメッセージを観て、思わず涙がこぼれます。
(坂梨さん)
「高校卒業してから、大学、社会人と色んなことがあったんですけど、やっぱり学生時代を知る方に応援の言葉をいただけるのはすごく嬉しいなと、今感動しています。」
女性の一生涯に寄り添いたいと話す坂梨さん。
今後の目標は?
(坂梨さん)
「女性の人生に、点ではなく線で寄り添っていきたいという想いがあるので、”その先”の、妊娠出産を希望される方に向けてのサポートだったりとか、次は更年期症状に悩む女性へのサポートだったり。女性の健康課題はライフステージによってさまざまなので、すべてに我々が寄り添えるようなサービスを作っていきたいと思います。」
#40 kotone(シンガーソングライター)
24年12月4日(水) 20:00
kotoneさん(宮崎県出身)
東京、新宿駅。鳴り響くのは、あたたかいギターの音色と優しい歌声。
その歌声に、ひとり、またひとりと、足をとめて聴き入る―――
人々を癒す、その声の持ち主は、今回の主人公であり宮崎県出身のシンガーソングライター・kotoneさんです。
その歌声を日本中に届けるため、今年、本格的に活動をスタートしました。
―――
宮崎市の中心市街地・ニシタチにお店を構える「aube鉄板料理つむぎ」。
ここに、kotoneさんに縁のある人物がいます。
kotoneさんのお父さん、松尾武成さんです。
お店をオープンしたのはおよそ20年前。kotoneさんも、このお店と共に育ってきました。
(父・武成さん)
「とにかく歌を歌い、毎日歌って踊って、負けず嫌いなかわいらしい子でしたね」
幼少期からピアノとダンスを習い、音楽が大好きだったkotoneさん。
このお店に、歌を始めるきっかけがあったんだそう。
(父・武成さん)
「常連さんの中に、ボイストレーニングをしてくれる人がいたから、小学校5年くらいでそこに入って(歌を習った)。」
(kotoneさん)
「ボイトレはじめた時期くらいに、周りの子たちも(私が)歌を習っているということを知っていたから”歌って歌って!”と言ってもらえるようになって。”ああ、歌楽しい”って思って、自然と歌手を目指していくようになりました。」
影響を受けたアーティストは、あいみょんやRADWIMPS。
オリジナル曲を作り始めたのは、宮崎大学の軽音部に入った頃。
(kotoneさん)
「軽音部でギターをやり始めてからオリジナル曲を作り始めて、それが大学2年~3年の時で、そこからシンガーソングライターという道を見始めました。」
大学を卒業後、福岡でSNSやライブを中心に活動し、昨年12月、活動拠点を東京に移しました。
(kotoneさん)
「(東京では)とりあえず頂いたライブに片っ端から出ていくっていう作戦で始まりました。」
東京でライブ活動をしていくにあたって、今年の4月、彼女にとって大きな出会いがありました。
新人アーティストの発掘や育成を行っている音楽プロデューサー、優剛さんの目に留まったのです。
(音楽プロデューサー・優剛さん)
「うちの会社のスタッフがkotoneさんにライブを観に行かせてもらって、一緒にやっていこうということになりました。」
「(kotoneさんは)声が特徴的、特殊なものはかなりあるかなと思っていて、あとプラスやっぱり人間性ですよね。彼女を愛してくれる人をもっと増やしたいなと思っています。」
優剛さんとタッグを組み、歩き始めたkotoneさん。
しかし、これまで制作した楽曲に対しては、厳しい評価も。
(kotoneさん)
「一番最初は、自分が今まで作った曲を全部聴いてもらって、ほぼバツ(不採用)で。良い曲だけど売れないっていうのを言われて。それで新しい曲を作って送って、それもまたバツバツバツで・・・。で、たまに出たマル(合格)を曲にしていってという形です。」
(父・武成さん)
「今年の5月6月くらいにやっとマルが出て、家族でマジ泣きよ。ほんとにもう、すごい頑張ったな!!て。」
―――そして、新しく制作した曲を引っ提げてのツアーが決定!
東京・福岡を経て、地元宮崎では宮崎市民文化ホールが会場となりました。
ツアーが決まってからは、告知を兼ねて毎日路上ライブを始めました。
Q.結構度胸がいるでしょ?
(kotoneさん)
「そうですね。最初は、始まるまで10分くらい、セッティング完了した状態なのに歌い始められないみたいな(日もあった)。」
(路上ライブの観客)
「なんとも癒されるお声ね」
老若男女問わず、様々な人でにぎわいます。
連日路上ライブに足を運んでくれる観客も。
(kotoneさん)
「昨日路上ライブで、まったく同じここで知り合って足をとめてくれて。」
(路上ライブの観客)
「可能性も感じたし、現時点でもすごくいい歌だし応援したいなと思います。」
「宮崎がまたすごい、2000人規模の大きいホールでやると聞いたので、行かなかったら後悔するなと思って、休み取ってホテル取って(行こうと思います)。」
路上ライブのあとは、楽器と機材を抱えての電車移動。
2日後に控えた、東京ライブのリハーサルへと向かいます。
これまでの弾き語りとは違い、今回は、バンドサウンドでのライブ。
バックには、プロのミュージシャンたちがサポートに入ります。
(kotoneさん)
「生音に囲まれながらやってて、(今までと)全然違うなってワクワクしてます。」
午後6時にスタートしたリハーサルは、深夜11時すぎまで続きました。
―――そしてついに迎えた、東京ライブ当日。
会場は、渋谷にある「Spotify O-nest」。250人規模のライブハウスです。
(kotoneさん)
「もう、ライブに向けての準備はしっかりしてきたので、100%、魂を込めて届けます!」
開演時刻には、入口の扉が閉まらないほどの超満員となっていました。
(kotoneさん)
「ライブ中もずっと感謝という心であふれすぎて、お客さんが本当にすごい数だなっていうのと、しっかり入り込んで伝えるぞ!届けるぞ!っていう気持ちで歌いました。」
―――
”お~い!元気しちょる?”
父・武成さんから、kotoneさんに宮崎を感じられるあたたかいプレゼント。
焼酎「霧島」やたくさんの宮崎県特産品に笑顔のkotoneさん。
―――
武成さんは、11/29の宮崎公演でkotoneさんの地元ライブを見届けました。
(父・武成さん)※撮影日は公演前
「もっと多くの人に見てもらう、声を届ける。オレも届けたいし、家族みんなで届けたいし、聴いてもらいたい。」
「聴いて癒されてほしい。」
(kotoneさん)※撮影日は公演前
「(宮崎公演では)ストリングスも追加されて大所帯でグランドピアノも入ってるので、遠くにいる人にまでもっと届くようなパフォーマンスと歌を仕上げていきたいです。」
kotoneさんの今後から目が離せません―――。
#39 福村あけみ(ウォーキングトレーナー)
24年11月13日(水) 20:00
福村あけみさん(都城市出身)
”ウォーキングで、人生が変わる!?”
あなたも、ちょっとだけ歩き方を変えてみませんか?
―――東京・新宿区のスタジオ。
今回の主人公は、ウォーキングトレーナーの福村あけみさん。
(福村さん)
「歩き方を変えると、印象が変わるんですよね。」
「たとえば、後ろ向きだった歩き方を、”あっちょっとこの歩き方だといけないな”と思って歩き方を変えると、傍から見たときの印象が変わって、結果的に、社会的とか、関わる人すべてに影響がでてきて、気が付けば本当に人生がかわるようなことになっている人がたくさんいる。」
正しい姿勢で歩くと、周りからの印象が変わり、自分に自信がもてるようになって、
さらに有酸素運動の効果も高まり、健康的なライフスタイルが実現できるといいます。
福村さんは、自身のウォーキング理論を”ウォークウェイ・メソッド”と呼び、これまで、数多くの人たちに教えてきました。
そのウォーキングの基礎を、少しだけ紹介してもらいました。
(福村さん)
「歩き方は、踵から指に体重が移動することの繰り返しを行なっているんですよ。」
「踵から指のこの、ローリング(※)していくような足裏の動きだけをひたすら練習していく。」
※踵から地面について指先が最後になるような動き方
(福村さん)
「そしてもう一点言うと、踵から指の体重移動に加えて、『前足ではなく後ろ足で地面を蹴る』ように歩くといいですよ。」
「できるだけ生活の中に歩きを取り入れてほしいし、難しい方は家の中でぜひ気を付けてほしいと思います。」
福村さんは、都城市出身。
都城高専に在学中からモデルとして活動し、卒業後に単身上京しました。
(妹・佳美さん)
「(あけみさんの上京時)私はまだ高校生だったので、そんなにすごいことだとは思っていなかったですけど、仕事もない、お金もない状況でトランク一つで東京に行ったので、今思うとすごいことだな~と思います。」
「姉は言ったらきかない性格なので、もう絶対成功するんだろうな~と思っていました。」
しかし上京後、モデルとして思うような結果が出せず、最後の思い出作りにと出場したMISS TOURISM QUEEN INTERNATIONAL(世界大会)で5位に入賞。
これが、ウォーキングトレーナーをはじめるきっかけとなりました。
(福村さん)
「ミスコンを終えて、自分自身ができるボランティアは何かなと探したときに、
”あっ、立ち方と歩き方って大事だし、どんなにお化粧できれいにしても、全体のイメージが綺麗にならなかったら本当の意味での完成じゃないから、土日にボランティアで姿勢と歩き方を教えよう”と始めたのがスタートです。」
当初は、公民館などでボランティアとしてはじめたウォーキングレッスン。
すると、ウワサがウワサを呼び、女性を中心に受講者が急増。
その後、ウォーキングスクールを運営するために会社を設立し、これまでに、述べ12万人を指導をしてきました。
福村さんが指導するのは、一般の女性からモデル、タレントまで、多岐にわたります。
この日は、ミス日本ファイナリストへのレッスンです。
(ミス日本協会・和田さん)
「私たちは”内面の美・外見の美・行動の美” この3つを基準としているんですが、ウォーキングはやっぱり”魅せる”部分であり、そしてあけみさんのウォーキングは、最初は外見の美と思うんですけど、内面の美の表現を教えてくださるので、本当に重要なポイントだと思っています。」
(指導中の福村さん)
「歩きは無意識の運動なので、クセになっている部分が多いんですよね。もう、普段歩く時も、コンビニ行くでも駅に行くでも、ずーっとこういう(ローリング)感じ。
すごく地味な作業なんだけど、これをやってる子とやってない子では、3か月後に会った時にわかります。」
レッスンでは、基礎となる足裏の動きから、ステージでのポージングまで指導します。
(受講者)
「”服の素材とかによって指先の伸ばし方を変えている”というところが一番印象的でした。」
「ウォーキングをやられてて、すごいカッコイイ方だなと思っていたんですけど、実際にコミュニケーションを取りながら、優しくも厳しくも(接してくれて)私にも学びが多い授業でした。」
―――
9月末。福村さんがやってきたのは、宮崎市で開催された「BEST BODY JAPAN2024」の宮崎大会。
この大会は、日本最大級の男女の年齢別ミスター&ミスコンテストです。
福村さんは、この大会の審査員を務めながら、公認講師として参加者に姿勢や歩き方を教えています。
(福村さん)
「私は人生を通して、立ち方と歩き方を日本中もしくは世界にいるみなさんに伝えたいという思いを生きがいにしていこうと決めてやっているので、”BEST BODY JAPAN”はコンテストということがキッカケなんだけども、優勝するためには姿勢と歩き方が必須なんですよ。コンテストを楽しみながら、実は私は姿勢を教えているという感じですかね。」
大会終了後、福村さんの元にはアドバイスを求める参加者が押し寄せます。
(福村さん)
「(宮崎大会は)ほかの地域に比べると、”自分をPRする”というのがやっぱりちょっと弱いのかなあという気はしますね。東京や大阪の人たちと同じくらい練習したら、宮崎県にいても本当に全国狙えるし、同じ価値観を宮崎から得ることができるので、やってもらいたいですけどね。」
―――
福村さんは、シューズのプロデュースもおこなっています。
その名も”ヌーディウォーク”。
正しい姿勢や歩き方をサポートするため、福村さんのこだわりが詰まっています。
(製作担当・G-STARS千野さん)
「福村先生の要望がものすごいありすぎて、インソールだけでも正直靴一足分つくれるくらい。」
このウォーキングシューズは、主にテレビの通販番組などで販売され、人気を集めています。
(製作担当・G-STARS千野さん)
「(TVの通販で)30分くらいで全数完売。一瞬で無くなって。」
(福村さん)
「本当に、私は足とか歩きのトラブルに困ってる方のお悩みをずーっと解決して歩き方を教えてきたから・・・でも、みなさん寄り添うことはできないじゃないですか。家まで一緒に歩いて帰るわけには行かないけども、それを、このヌーディウォークのシリーズたちがやってくれるようになって。」
実業家・ウォーキングトレーナー、そして、モデルとしても活躍している、福村さん。
(妹・佳美さん)
「尊敬しますね。(福村さんの活躍を)テレビとかに出たり、雑誌でみかけたりしているので、離れていても活躍が見られます。」
―――福村さんの、これからの夢は?
(福村さん)
「(夢が)できたんですよ、最近。」
「先月、レッスンでニューヨークに行かせてもらって、はじめて自分の歩き方というのをほかの国の方々に、現地でレッスンを開講して教えるというのをやってみて、やはりこう、今はYouTubeとかネット上でも、ほかの国に住んでいてもお伝えできるということがあるので、これからまた10年、15年かけて、日本以外の国に住んでいる方々にもちょっとずつ広げていこうかなというのは思っています。」
#38 井上彪(プロボクサー)
24年10月2日(水) 20:00
井上彪さん(宮崎県出身)
大阪市にある、六島ジム。数多くのプロボクサーを輩出している、名門です。
ここに、宮崎から世界へ羽ばたこうと奮闘するプロボクサーがいます。
今回の主人公、井上彪(いのうえ・たける)さんです。
一度は諦めた”世界王者”の座。その夢を追いかけ続け、日々トレーニングに励む彼の姿を追いました。
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宮崎市にある格闘技ジム「神武會」。
ここに、井上選手と縁のある方がいます。
道場長の青木太さん。主人公との関係は―――?
(青木さん)
「タケちゃん(井上選手)が小学校低学年から空手をしていたんですけど、その時から教えていて。今でも帰ってくるたびにここで一緒に練習をするような仲です。」
(井上さん)
「小さい頃から気にかけていただいてて。ごはんを食べに連れて行っていただいたりとか。そういう関係をずっと現在まで続けさせていただいている感じです。」
幼少期から空手道場に通い、格闘技の道へ進んだ井上さん。
小学校の時に、道場で”ある出会い”がありました。
(青木さん)
「道場に田野先生という、ボクシングで有名な先生がいらっしゃって。田野先生に会えたのが(彼の)ターニングポイントになってると思います。」
(井上さん)
「そのまま田野先生に教えをこう形になって、ボクシングを始めました。」
井上さんは小学校を卒業後、ボクシングの強豪校である日章学園へ進学。
高校1年生の時には、全国高校選抜フライ級で優勝。そして―――
(井上さん)
「翌年、高校2年生のインターハイで優勝して、そこからは3位以内の入賞はしているんですけど、チャンピョンはとれていないですね。」
現在プロボクサー3年目で、日本ライトフライ級4位の井上さん。
六島ジムトレーナーの武市さんの指導のもと、日々トレーニングに励んでいます。
(武市さん)
「普通のボクサーにはないタイミングで打つんですよね。踏み込みが早いしバックステップが早いから、そういう基本的な能力が高いですね。」
持ち前のセンスを活かし、世界王者を目指していましたが、
実は一度、ボクシングから離れていた時期がありました。
(井上さん)
「大学卒業を機に働かないといけないっていうのもありまして。
警察官を志して合格をいただいていたので、そのまま警察官として働かせてもらっていました。」
ボクシングで近畿大学へ進学した井上さん。
アマチュアの戦績は53勝13敗でしたが、ここでボクシングから離れ、卒業後は大阪府警に入りました。
(井上さん)
「自分のための就職ではあったんですけど、やっぱりお世話になってる両親が”いいところに就職したな”と思ってくれたらそれはそれで嬉しいなという気持ちもあって、働かせていただいていました。」
(青木さん)
「(警察官は)良い職業だということで、良かったねーと言っていたんですけど・・・」
警察官として勤務し、しばらくたった頃、メディアで目にするボクシングの試合を見るたびに、気持ちが揺らいでいました。
(井上さん)
「警察学校を出た時、ボクシングをしている人を見て”羨ましい”って思ったのが一番の答えかなと。”羨ましいから、僕もやりたい”(と思いました)。」
(青木さん)
「本人が来て、『プロボクサーになりたいから悩んでいます』『コーチから”もう世界とれるぞ、お前やったら”と(言われた』と相談を受けた)。」
その声をかけたコーチが、六島ジムのトレーナー・武市さんでした。
(武市さん)
「(井上さんが)堅い仕事に就いていたので、(声掛けは)ちょっと迷うところも自分自身にあったけど、彼の未来を考えたときに”どっちが後悔しないかな”と色々考えた結果、プロに誘いました。」
2022年6月末で大阪府警を退職し、同年10月にプロボクサーデビューとしてデビューを飾りました。
――――――――――――――――――――――――
取材当日、井上さんは大阪府中央卸売市場にいました。
主に青果物を扱う、みくりや青果。
ここが、井上さんの現在の職場です。
(井上さん)
「(警察官とは)全然違った方向性の仕事ですけど、普段なにげなく見てるスーパーの野菜の裏側を作れるっていうのはとても新鮮な機会だと思います。」
「勤務時間とかも色々融通をきかせてもらっているので、プロボクサーとして活動する上では働きやすい職場だなと思います。」
(みくりや青果・細田社長)
「(井上さんは)本当にまじめで。まず返事も良いですし、本当に助かっています。」
「遠征とか最優先で、頑張ってこいっていう気持ちでみんないてます。」
井上選手の試合にはかかさず応援に行くという細田社長。
(みくりや青果・細田社長)
「必勝を願って横断幕をつくらせてもらって、リングから目立つところに掲げさせてもらっています。」
そんな社長のはからいもあり、今はボクシングに専念できる最適の環境なんだそう。
プロデビューしてから4戦目まで無敗と、順調に勝ち進んできた井上選手に、
今年4月、大きな試合が舞い込んできました。
”WBOアジアパシフィック ライトフライ級タイトルマッチ”
5戦目という異例のスピードで、アジアタイトル戦を迎えました。
(井上さん)
「めちゃくちゃ早くチャンスを作っていただいたなという気持ちと、ここで勝てば世界の道が広がるっていうような試合だったので・・・」
相手はこの階級の王者、ジェイソン・バイソン選手。
(井上さん)
「1ラウンド目に、すごいパンチを効かされてしまって。
プロボクシングに入ってから試合でパンチを効かされたのが今回初めてでした。」
1ラウンド目から相手優勢で試合が進みましたが、10ラウンドまで粘り、判定へ・・・
―――
プロで初の黒星となったタイトル戦。今回の試合でみえた課題は―――。
(井上さん)
「前回の問題点であったディフェンスであったりとか、プロボクサーとして効かせるパンチの仕方であったりとか、そういったところに焦点を当てて練習をし直しているような感じです。」
――――――――――――――――――――――――
休日、井上さんの家に案内してもらいました。
住んでいる部屋は、ジムが用意してくれた寮。
仕事や練習のない日は身体を休め、ゆっくりと過ごすことが多いんだそう。
(井上さん)
「警察官をしていた時は交番勤務をしてましたので、生活リズムは結構不規則だったのかなと思います。今は、生活リズムはちゃんとしたものになっているかなと思います。」
この日、近くに住む井上さんのお兄さんとの食事に同行させてもらいました。
向かった先は、意外にもラーメン屋でした。
(井上さん)
「減量がないシーズンだけですけど、ラーメンも食べます。」
お兄さんに、彪さんがプロになったことについて聞いてみると―――
(兄・颯さん)
「練習は多分しんどいんだと思いますけど、しんどいながらも充実してそうなのでプロになって良かったんじゃないかと思います。」
――――――――――――――――――――――――
(井上さん)
「何をするにしろ、努力というのは絶対に必要なことになってくると思うので、今回の負けにへこたれず、しっかりまた地道に努力をして、最終的にはやっぱり世界チャンピオンっていうのが目標ですけれど。しっかり段階を踏んでやっていければと思います。」
夢を追い続ける、元警察官ボクサーの挑戦は、これからも続きます―――。
#37 早田神龍(木下大サーカス)
24年9月4日(水) 20:00
早田神龍さん(小林市出身)
小林秀峰高校の男子新体操部。
これまで、全国大会で数々の成績を残してきた、全国屈指の強豪校です。
今回の主人公は、そんな小林秀峰高校男子新体操部のOB。
強豪チームを卒業し、選んだ道とは―――?
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広島市。創業122年の木下大サーカス。
動物たちによる曲芸や世界一流アーティストによる圧巻のパフォーマンスで、年間120万人以上を動員する世界最大級のサーカスです。
サーカスの花形ともいえる、空中ブランコで活躍しているのが今回の主人公、早田神龍。小林市出身の27歳です。
(早田さん)
「ダイナミックな技とか、高さの緊張感とか、みんなヒヤヒヤしながらやっている感じ…
いろんなところに魅力があると思います。」
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7月某日。広島公演の会場に早田さんの姿がありました。
(早田さん)
「いまから溶接の作業です。」 なんと、パフォーマーである早田さんも作業をするそう。
実は、木下大サーカスは、お客さんの案内や販売などの運営・テントの設営・ショーの準備などを全てサーカスの団員でおこなっているんです。
会場の顔となる入口の看板まで、団員たちの手作り!!
(早田さん)
「ほぼ独学ですね(笑)サーカスの先輩に教えてもらったりとか。」
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新体操が盛んな、小林市。中学から新体操をはじめた早田さんは、強豪の小林秀峰高校へ進学。
(早田さん)
「高校時代が一番しんどかったなと思います(笑)」
「(今は)場起こしとか解体設営とかもしんどいんですけど、高校の部活に比べたらみたいなのがあるので、やっぱりやってて良かったなと思いますね。」
(高校時代の恩師・日高監督)
「早田は、体操がすごくうまくて、逆に言えばタンブリング(※)はそこまで得意ではなかったと思うんですけど、その分”自分の武器ってなんだろう”って極めた結果が体操の部分だったのかなと思います。」
※タンブリング:床やマットの上で跳躍や回転をおこなう運動のこと。
高校在学当時はインターハイにも出場。
2015年には全国高等学校総合体育大会で7位という好成績をおさめました。
(早田さん)
「やっぱり6年間培ったパフォーマンスやバク転とかをなにか仕事に生かせるものがないのかなというのを(当時の)担任の先生に相談したら、”木下サーカスっていう求人があるけど受けてみるか?”って言われて、『ぜひ!』って。」
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いよいよ公演日がやってきました。
この日は、夏休みということもありお客さんも多く大盛況。会場は、熱気に包まれました。
舞台では、”ハイスピードローラースケーティング”に”七丁椅子の妙技”など、
様々なパフォーマンスがお客さんを魅了します。
プログラムの最後を飾るのは、”空中ブランコ”。高さは13m。ビルの四階に相当します。
ハラハラするパフォーマンスが繰り広げられる中、いよいよ早田さんの出番。
身軽で華麗な演技にお客さんも釘付けです。
終演後のお客さんインタビューでも真っ先に”空中ブランコ!””すごかった!”と出るほど。
観客を魅了する早田さん。その素顔とは―――?
――――――――――――――――――――――――
この日は、公演終わりに家族での団欒。仲が良いメンバーも合流してのお食事です。
(早田さん)
「(こういう食事は)よく行きますね。こういう場で話したほうが仕事に活きることが多くて。」
奥さんの菫さんも、サーカスのパフォーマー。
仲間として、そして家族として、早田さんを支えます。
(妻・菫さん)
「普通の家庭に比べたら(一緒にいる時間が)長いかもしれないです。」
「私が仕事復帰してからは、ほとんどの家事を(早田さんが)やってくれるんです。」
(早田さん)
「キツイこととかがあっても、娘のことを想ったら頑張れるし、全部を家族に捧げられるくらい。やっぱり子どもと嫁が大事です。生きがいですかね。」
――――――――――――――――――――――――
ショーの花形、空中ブランコに出演する早田さんですが、実は高所恐怖症。
(早田さん)
「ショーのオープニングにぐるぐる回る演目があるんですが、それを以前僕もやっていて。
その時に自律神経というか、急な発作みたいなのが出て、空中ブランコでも出始めて・・・
1回ブランコをやめるというか、また一から下から練習しようってなりました。」
およそ3年前。空中ブランコの舞台から一時おりることに。
(早田さん)
「必死でしたね。また舞台に立てるようにって。
同期がやっているのを下から眺めていて、”俺もまたあそこ立ちたいな”っていう気持ちで。
でもやっぱ怖さが勝っちゃったりとか。自分を奮い立たせながらやってて。
”また下でやったらできるから”とか励ましとか色々、同期が助けてくれたりとか。
そういうことがあって・・・また出られましたね。」
空中パフォーマーの先輩からはこんな声も。
(先輩・高岡さん)
「もともとクオリティが高いんで、ポテンシャルも高いんですが、
なかなか気持ち的に打ち勝てずに、新しいことにチャレンジをあまりしないので・・・
もうひとランク、技のレベルを上げるとか、やってもらいたいです。」
――――――――――――――――――――――――
公演終了後、新しいパフォーマンスに挑戦する早田さんの姿がありました。
(早田さん)
「綱渡りなんですけど、”坂綱”って呼んでいます。
下から上までロープを張ったのを、足の指で登っていくっていう技です。」
実は、9月22日からは宮崎公演が始まります。
そこで披露するために、2年前からこのパフォーマンスを特訓しています。
この”坂綱”も高さは10m越え。さらに、傾斜のある綱を背中で滑り落ちます。
(恩師・日高監督)
「今回の宮崎の公演も、ぜひみんな(小林秀峰高校 男子新体操部)で観に行きたいと思ってますし、(早田さんの姿を)今の子どもたちに見せるのも、すごく子どもたちにとってエネルギーになったり、励みになったりすると思うので、頑張ってもらいたいですね。」
”お~い!元気しちょる?”
恩師・日高監督から早田神龍さんに贈ったものとは・・・?
宮崎を感じる霧島焼酎と”小林秀峰タオル”。タオルは今年初めて作ったそう。
そして・・・小林秀峰高校農業科で作ったいちごジャムや乳酸飲料も。
(早田さん)
「懐かしい~!!僕も作ってましたよ。」
高校の後輩たちと日高監督のビデオメッセージにも笑顔の早田さん。
(早田さん)
「あとは、(宮崎公演の)舞台で見てもらえれば。」
後輩や恩師に魅せる演技、よりいっそう気合が入りますね。
(早田さん)
「前回(の宮崎公演)と全然やっていることも違うし、僕も結構成長していて、あの当時はあんまり思っていなかったことなんですけど、”感謝”を今は常に感じていますね。」
「人と人とのつながりもそうだし、監督であったり、家族であったり、同期に支えられて(ここまで来れたので)、、、。なので最近よくいう言葉が”感謝を伝える”ですね。」
「どこの公演でももちろんそうですけど、特に地元宮崎は感謝を伝えたい人がいっぱいいるので、”感謝”の気持ちでステージに立ちたいです。」
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