#40 kotone(シンガーソングライター)
24年12月4日(水) 20:00
kotoneさん(宮崎県出身)
東京、新宿駅。鳴り響くのは、あたたかいギターの音色と優しい歌声。
その歌声に、ひとり、またひとりと、足をとめて聴き入る―――
人々を癒す、その声の持ち主は、今回の主人公であり宮崎県出身のシンガーソングライター・kotoneさんです。
その歌声を日本中に届けるため、今年、本格的に活動をスタートしました。
―――
宮崎市の中心市街地・ニシタチにお店を構える「aube鉄板料理つむぎ」。
ここに、kotoneさんに縁のある人物がいます。
kotoneさんのお父さん、松尾武成さんです。
お店をオープンしたのはおよそ20年前。kotoneさんも、このお店と共に育ってきました。
(父・武成さん)
「とにかく歌を歌い、毎日歌って踊って、負けず嫌いなかわいらしい子でしたね」
幼少期からピアノとダンスを習い、音楽が大好きだったkotoneさん。
このお店に、歌を始めるきっかけがあったんだそう。
(父・武成さん)
「常連さんの中に、ボイストレーニングをしてくれる人がいたから、小学校5年くらいでそこに入って(歌を習った)。」
(kotoneさん)
「ボイトレはじめた時期くらいに、周りの子たちも(私が)歌を習っているということを知っていたから”歌って歌って!”と言ってもらえるようになって。”ああ、歌楽しい”って思って、自然と歌手を目指していくようになりました。」
影響を受けたアーティストは、あいみょんやRADWIMPS。
オリジナル曲を作り始めたのは、宮崎大学の軽音部に入った頃。
(kotoneさん)
「軽音部でギターをやり始めてからオリジナル曲を作り始めて、それが大学2年~3年の時で、そこからシンガーソングライターという道を見始めました。」
大学を卒業後、福岡でSNSやライブを中心に活動し、昨年12月、活動拠点を東京に移しました。
(kotoneさん)
「(東京では)とりあえず頂いたライブに片っ端から出ていくっていう作戦で始まりました。」
東京でライブ活動をしていくにあたって、今年の4月、彼女にとって大きな出会いがありました。
新人アーティストの発掘や育成を行っている音楽プロデューサー、優剛さんの目に留まったのです。
(音楽プロデューサー・優剛さん)
「うちの会社のスタッフがkotoneさんにライブを観に行かせてもらって、一緒にやっていこうということになりました。」
「(kotoneさんは)声が特徴的、特殊なものはかなりあるかなと思っていて、あとプラスやっぱり人間性ですよね。彼女を愛してくれる人をもっと増やしたいなと思っています。」
優剛さんとタッグを組み、歩き始めたkotoneさん。
しかし、これまで制作した楽曲に対しては、厳しい評価も。
(kotoneさん)
「一番最初は、自分が今まで作った曲を全部聴いてもらって、ほぼバツ(不採用)で。良い曲だけど売れないっていうのを言われて。それで新しい曲を作って送って、それもまたバツバツバツで・・・。で、たまに出たマル(合格)を曲にしていってという形です。」
(父・武成さん)
「今年の5月6月くらいにやっとマルが出て、家族でマジ泣きよ。ほんとにもう、すごい頑張ったな!!て。」
―――そして、新しく制作した曲を引っ提げてのツアーが決定!
東京・福岡を経て、地元宮崎では宮崎市民文化ホールが会場となりました。
ツアーが決まってからは、告知を兼ねて毎日路上ライブを始めました。
Q.結構度胸がいるでしょ?
(kotoneさん)
「そうですね。最初は、始まるまで10分くらい、セッティング完了した状態なのに歌い始められないみたいな(日もあった)。」
(路上ライブの観客)
「なんとも癒されるお声ね」
老若男女問わず、様々な人でにぎわいます。
連日路上ライブに足を運んでくれる観客も。
(kotoneさん)
「昨日路上ライブで、まったく同じここで知り合って足をとめてくれて。」
(路上ライブの観客)
「可能性も感じたし、現時点でもすごくいい歌だし応援したいなと思います。」
「宮崎がまたすごい、2000人規模の大きいホールでやると聞いたので、行かなかったら後悔するなと思って、休み取ってホテル取って(行こうと思います)。」
路上ライブのあとは、楽器と機材を抱えての電車移動。
2日後に控えた、東京ライブのリハーサルへと向かいます。
これまでの弾き語りとは違い、今回は、バンドサウンドでのライブ。
バックには、プロのミュージシャンたちがサポートに入ります。
(kotoneさん)
「生音に囲まれながらやってて、(今までと)全然違うなってワクワクしてます。」
午後6時にスタートしたリハーサルは、深夜11時すぎまで続きました。
―――そしてついに迎えた、東京ライブ当日。
会場は、渋谷にある「Spotify O-nest」。250人規模のライブハウスです。
(kotoneさん)
「もう、ライブに向けての準備はしっかりしてきたので、100%、魂を込めて届けます!」
開演時刻には、入口の扉が閉まらないほどの超満員となっていました。
(kotoneさん)
「ライブ中もずっと感謝という心であふれすぎて、お客さんが本当にすごい数だなっていうのと、しっかり入り込んで伝えるぞ!届けるぞ!っていう気持ちで歌いました。」
―――
”お~い!元気しちょる?”
父・武成さんから、kotoneさんに宮崎を感じられるあたたかいプレゼント。
焼酎「霧島」やたくさんの宮崎県特産品に笑顔のkotoneさん。
―――
武成さんは、11/29の宮崎公演でkotoneさんの地元ライブを見届けました。
(父・武成さん)※撮影日は公演前
「もっと多くの人に見てもらう、声を届ける。オレも届けたいし、家族みんなで届けたいし、聴いてもらいたい。」
「聴いて癒されてほしい。」
(kotoneさん)※撮影日は公演前
「(宮崎公演では)ストリングスも追加されて大所帯でグランドピアノも入ってるので、遠くにいる人にまでもっと届くようなパフォーマンスと歌を仕上げていきたいです。」
kotoneさんの今後から目が離せません―――。
#39 福村あけみ(ウォーキングトレーナー)
24年11月13日(水) 20:00
福村あけみさん(都城市出身)
”ウォーキングで、人生が変わる!?”
あなたも、ちょっとだけ歩き方を変えてみませんか?
―――東京・新宿区のスタジオ。
今回の主人公は、ウォーキングトレーナーの福村あけみさん。
(福村さん)
「歩き方を変えると、印象が変わるんですよね。」
「たとえば、後ろ向きだった歩き方を、”あっちょっとこの歩き方だといけないな”と思って歩き方を変えると、傍から見たときの印象が変わって、結果的に、社会的とか、関わる人すべてに影響がでてきて、気が付けば本当に人生がかわるようなことになっている人がたくさんいる。」
正しい姿勢で歩くと、周りからの印象が変わり、自分に自信がもてるようになって、
さらに有酸素運動の効果も高まり、健康的なライフスタイルが実現できるといいます。
福村さんは、自身のウォーキング理論を”ウォークウェイ・メソッド”と呼び、これまで、数多くの人たちに教えてきました。
そのウォーキングの基礎を、少しだけ紹介してもらいました。
(福村さん)
「歩き方は、踵から指に体重が移動することの繰り返しを行なっているんですよ。」
「踵から指のこの、ローリング(※)していくような足裏の動きだけをひたすら練習していく。」
※踵から地面について指先が最後になるような動き方
(福村さん)
「そしてもう一点言うと、踵から指の体重移動に加えて、『前足ではなく後ろ足で地面を蹴る』ように歩くといいですよ。」
「できるだけ生活の中に歩きを取り入れてほしいし、難しい方は家の中でぜひ気を付けてほしいと思います。」
福村さんは、都城市出身。
都城高専に在学中からモデルとして活動し、卒業後に単身上京しました。
(妹・佳美さん)
「(あけみさんの上京時)私はまだ高校生だったので、そんなにすごいことだとは思っていなかったですけど、仕事もない、お金もない状況でトランク一つで東京に行ったので、今思うとすごいことだな~と思います。」
「姉は言ったらきかない性格なので、もう絶対成功するんだろうな~と思っていました。」
しかし上京後、モデルとして思うような結果が出せず、最後の思い出作りにと出場したMISS TOURISM QUEEN INTERNATIONAL(世界大会)で5位に入賞。
これが、ウォーキングトレーナーをはじめるきっかけとなりました。
(福村さん)
「ミスコンを終えて、自分自身ができるボランティアは何かなと探したときに、
”あっ、立ち方と歩き方って大事だし、どんなにお化粧できれいにしても、全体のイメージが綺麗にならなかったら本当の意味での完成じゃないから、土日にボランティアで姿勢と歩き方を教えよう”と始めたのがスタートです。」
当初は、公民館などでボランティアとしてはじめたウォーキングレッスン。
すると、ウワサがウワサを呼び、女性を中心に受講者が急増。
その後、ウォーキングスクールを運営するために会社を設立し、これまでに、述べ12万人を指導をしてきました。
福村さんが指導するのは、一般の女性からモデル、タレントまで、多岐にわたります。
この日は、ミス日本ファイナリストへのレッスンです。
(ミス日本協会・和田さん)
「私たちは”内面の美・外見の美・行動の美” この3つを基準としているんですが、ウォーキングはやっぱり”魅せる”部分であり、そしてあけみさんのウォーキングは、最初は外見の美と思うんですけど、内面の美の表現を教えてくださるので、本当に重要なポイントだと思っています。」
(指導中の福村さん)
「歩きは無意識の運動なので、クセになっている部分が多いんですよね。もう、普段歩く時も、コンビニ行くでも駅に行くでも、ずーっとこういう(ローリング)感じ。
すごく地味な作業なんだけど、これをやってる子とやってない子では、3か月後に会った時にわかります。」
レッスンでは、基礎となる足裏の動きから、ステージでのポージングまで指導します。
(受講者)
「”服の素材とかによって指先の伸ばし方を変えている”というところが一番印象的でした。」
「ウォーキングをやられてて、すごいカッコイイ方だなと思っていたんですけど、実際にコミュニケーションを取りながら、優しくも厳しくも(接してくれて)私にも学びが多い授業でした。」
―――
9月末。福村さんがやってきたのは、宮崎市で開催された「BEST BODY JAPAN2024」の宮崎大会。
この大会は、日本最大級の男女の年齢別ミスター&ミスコンテストです。
福村さんは、この大会の審査員を務めながら、公認講師として参加者に姿勢や歩き方を教えています。
(福村さん)
「私は人生を通して、立ち方と歩き方を日本中もしくは世界にいるみなさんに伝えたいという思いを生きがいにしていこうと決めてやっているので、”BEST BODY JAPAN”はコンテストということがキッカケなんだけども、優勝するためには姿勢と歩き方が必須なんですよ。コンテストを楽しみながら、実は私は姿勢を教えているという感じですかね。」
大会終了後、福村さんの元にはアドバイスを求める参加者が押し寄せます。
(福村さん)
「(宮崎大会は)ほかの地域に比べると、”自分をPRする”というのがやっぱりちょっと弱いのかなあという気はしますね。東京や大阪の人たちと同じくらい練習したら、宮崎県にいても本当に全国狙えるし、同じ価値観を宮崎から得ることができるので、やってもらいたいですけどね。」
―――
福村さんは、シューズのプロデュースもおこなっています。
その名も”ヌーディウォーク”。
正しい姿勢や歩き方をサポートするため、福村さんのこだわりが詰まっています。
(製作担当・G-STARS千野さん)
「福村先生の要望がものすごいありすぎて、インソールだけでも正直靴一足分つくれるくらい。」
このウォーキングシューズは、主にテレビの通販番組などで販売され、人気を集めています。
(製作担当・G-STARS千野さん)
「(TVの通販で)30分くらいで全数完売。一瞬で無くなって。」
(福村さん)
「本当に、私は足とか歩きのトラブルに困ってる方のお悩みをずーっと解決して歩き方を教えてきたから・・・でも、みなさん寄り添うことはできないじゃないですか。家まで一緒に歩いて帰るわけには行かないけども、それを、このヌーディウォークのシリーズたちがやってくれるようになって。」
実業家・ウォーキングトレーナー、そして、モデルとしても活躍している、福村さん。
(妹・佳美さん)
「尊敬しますね。(福村さんの活躍を)テレビとかに出たり、雑誌でみかけたりしているので、離れていても活躍が見られます。」
―――福村さんの、これからの夢は?
(福村さん)
「(夢が)できたんですよ、最近。」
「先月、レッスンでニューヨークに行かせてもらって、はじめて自分の歩き方というのをほかの国の方々に、現地でレッスンを開講して教えるというのをやってみて、やはりこう、今はYouTubeとかネット上でも、ほかの国に住んでいてもお伝えできるということがあるので、これからまた10年、15年かけて、日本以外の国に住んでいる方々にもちょっとずつ広げていこうかなというのは思っています。」
#38 井上彪(プロボクサー)
24年10月2日(水) 20:00
井上彪さん(宮崎県出身)
大阪市にある、六島ジム。数多くのプロボクサーを輩出している、名門です。
ここに、宮崎から世界へ羽ばたこうと奮闘するプロボクサーがいます。
今回の主人公、井上彪(いのうえ・たける)さんです。
一度は諦めた”世界王者”の座。その夢を追いかけ続け、日々トレーニングに励む彼の姿を追いました。
――――――――――――――――――――――――
宮崎市にある格闘技ジム「神武會」。
ここに、井上選手と縁のある方がいます。
道場長の青木太さん。主人公との関係は―――?
(青木さん)
「タケちゃん(井上選手)が小学校低学年から空手をしていたんですけど、その時から教えていて。今でも帰ってくるたびにここで一緒に練習をするような仲です。」
(井上さん)
「小さい頃から気にかけていただいてて。ごはんを食べに連れて行っていただいたりとか。そういう関係をずっと現在まで続けさせていただいている感じです。」
幼少期から空手道場に通い、格闘技の道へ進んだ井上さん。
小学校の時に、道場で”ある出会い”がありました。
(青木さん)
「道場に田野先生という、ボクシングで有名な先生がいらっしゃって。田野先生に会えたのが(彼の)ターニングポイントになってると思います。」
(井上さん)
「そのまま田野先生に教えをこう形になって、ボクシングを始めました。」
井上さんは小学校を卒業後、ボクシングの強豪校である日章学園へ進学。
高校1年生の時には、全国高校選抜フライ級で優勝。そして―――
(井上さん)
「翌年、高校2年生のインターハイで優勝して、そこからは3位以内の入賞はしているんですけど、チャンピョンはとれていないですね。」
現在プロボクサー3年目で、日本ライトフライ級4位の井上さん。
六島ジムトレーナーの武市さんの指導のもと、日々トレーニングに励んでいます。
(武市さん)
「普通のボクサーにはないタイミングで打つんですよね。踏み込みが早いしバックステップが早いから、そういう基本的な能力が高いですね。」
持ち前のセンスを活かし、世界王者を目指していましたが、
実は一度、ボクシングから離れていた時期がありました。
(井上さん)
「大学卒業を機に働かないといけないっていうのもありまして。
警察官を志して合格をいただいていたので、そのまま警察官として働かせてもらっていました。」
ボクシングで近畿大学へ進学した井上さん。
アマチュアの戦績は53勝13敗でしたが、ここでボクシングから離れ、卒業後は大阪府警に入りました。
(井上さん)
「自分のための就職ではあったんですけど、やっぱりお世話になってる両親が”いいところに就職したな”と思ってくれたらそれはそれで嬉しいなという気持ちもあって、働かせていただいていました。」
(青木さん)
「(警察官は)良い職業だということで、良かったねーと言っていたんですけど・・・」
警察官として勤務し、しばらくたった頃、メディアで目にするボクシングの試合を見るたびに、気持ちが揺らいでいました。
(井上さん)
「警察学校を出た時、ボクシングをしている人を見て”羨ましい”って思ったのが一番の答えかなと。”羨ましいから、僕もやりたい”(と思いました)。」
(青木さん)
「本人が来て、『プロボクサーになりたいから悩んでいます』『コーチから”もう世界とれるぞ、お前やったら”と(言われた』と相談を受けた)。」
その声をかけたコーチが、六島ジムのトレーナー・武市さんでした。
(武市さん)
「(井上さんが)堅い仕事に就いていたので、(声掛けは)ちょっと迷うところも自分自身にあったけど、彼の未来を考えたときに”どっちが後悔しないかな”と色々考えた結果、プロに誘いました。」
2022年6月末で大阪府警を退職し、同年10月にプロボクサーデビューとしてデビューを飾りました。
――――――――――――――――――――――――
取材当日、井上さんは大阪府中央卸売市場にいました。
主に青果物を扱う、みくりや青果。
ここが、井上さんの現在の職場です。
(井上さん)
「(警察官とは)全然違った方向性の仕事ですけど、普段なにげなく見てるスーパーの野菜の裏側を作れるっていうのはとても新鮮な機会だと思います。」
「勤務時間とかも色々融通をきかせてもらっているので、プロボクサーとして活動する上では働きやすい職場だなと思います。」
(みくりや青果・細田社長)
「(井上さんは)本当にまじめで。まず返事も良いですし、本当に助かっています。」
「遠征とか最優先で、頑張ってこいっていう気持ちでみんないてます。」
井上選手の試合にはかかさず応援に行くという細田社長。
(みくりや青果・細田社長)
「必勝を願って横断幕をつくらせてもらって、リングから目立つところに掲げさせてもらっています。」
そんな社長のはからいもあり、今はボクシングに専念できる最適の環境なんだそう。
プロデビューしてから4戦目まで無敗と、順調に勝ち進んできた井上選手に、
今年4月、大きな試合が舞い込んできました。
”WBOアジアパシフィック ライトフライ級タイトルマッチ”
5戦目という異例のスピードで、アジアタイトル戦を迎えました。
(井上さん)
「めちゃくちゃ早くチャンスを作っていただいたなという気持ちと、ここで勝てば世界の道が広がるっていうような試合だったので・・・」
相手はこの階級の王者、ジェイソン・バイソン選手。
(井上さん)
「1ラウンド目に、すごいパンチを効かされてしまって。
プロボクシングに入ってから試合でパンチを効かされたのが今回初めてでした。」
1ラウンド目から相手優勢で試合が進みましたが、10ラウンドまで粘り、判定へ・・・
―――
プロで初の黒星となったタイトル戦。今回の試合でみえた課題は―――。
(井上さん)
「前回の問題点であったディフェンスであったりとか、プロボクサーとして効かせるパンチの仕方であったりとか、そういったところに焦点を当てて練習をし直しているような感じです。」
――――――――――――――――――――――――
休日、井上さんの家に案内してもらいました。
住んでいる部屋は、ジムが用意してくれた寮。
仕事や練習のない日は身体を休め、ゆっくりと過ごすことが多いんだそう。
(井上さん)
「警察官をしていた時は交番勤務をしてましたので、生活リズムは結構不規則だったのかなと思います。今は、生活リズムはちゃんとしたものになっているかなと思います。」
この日、近くに住む井上さんのお兄さんとの食事に同行させてもらいました。
向かった先は、意外にもラーメン屋でした。
(井上さん)
「減量がないシーズンだけですけど、ラーメンも食べます。」
お兄さんに、彪さんがプロになったことについて聞いてみると―――
(兄・颯さん)
「練習は多分しんどいんだと思いますけど、しんどいながらも充実してそうなのでプロになって良かったんじゃないかと思います。」
――――――――――――――――――――――――
(井上さん)
「何をするにしろ、努力というのは絶対に必要なことになってくると思うので、今回の負けにへこたれず、しっかりまた地道に努力をして、最終的にはやっぱり世界チャンピオンっていうのが目標ですけれど。しっかり段階を踏んでやっていければと思います。」
夢を追い続ける、元警察官ボクサーの挑戦は、これからも続きます―――。
#37 早田神龍(木下大サーカス)
24年9月4日(水) 20:00
早田神龍さん(小林市出身)
小林秀峰高校の男子新体操部。
これまで、全国大会で数々の成績を残してきた、全国屈指の強豪校です。
今回の主人公は、そんな小林秀峰高校男子新体操部のOB。
強豪チームを卒業し、選んだ道とは―――?
――――――――――――――――――――――――
広島市。創業122年の木下大サーカス。
動物たちによる曲芸や世界一流アーティストによる圧巻のパフォーマンスで、年間120万人以上を動員する世界最大級のサーカスです。
サーカスの花形ともいえる、空中ブランコで活躍しているのが今回の主人公、早田神龍。小林市出身の27歳です。
(早田さん)
「ダイナミックな技とか、高さの緊張感とか、みんなヒヤヒヤしながらやっている感じ…
いろんなところに魅力があると思います。」
――――――――――――――――――――――――
7月某日。広島公演の会場に早田さんの姿がありました。
(早田さん)
「いまから溶接の作業です。」 なんと、パフォーマーである早田さんも作業をするそう。
実は、木下大サーカスは、お客さんの案内や販売などの運営・テントの設営・ショーの準備などを全てサーカスの団員でおこなっているんです。
会場の顔となる入口の看板まで、団員たちの手作り!!
(早田さん)
「ほぼ独学ですね(笑)サーカスの先輩に教えてもらったりとか。」
――――――――――――――――――――――――
新体操が盛んな、小林市。中学から新体操をはじめた早田さんは、強豪の小林秀峰高校へ進学。
(早田さん)
「高校時代が一番しんどかったなと思います(笑)」
「(今は)場起こしとか解体設営とかもしんどいんですけど、高校の部活に比べたらみたいなのがあるので、やっぱりやってて良かったなと思いますね。」
(高校時代の恩師・日高監督)
「早田は、体操がすごくうまくて、逆に言えばタンブリング(※)はそこまで得意ではなかったと思うんですけど、その分”自分の武器ってなんだろう”って極めた結果が体操の部分だったのかなと思います。」
※タンブリング:床やマットの上で跳躍や回転をおこなう運動のこと。
高校在学当時はインターハイにも出場。
2015年には全国高等学校総合体育大会で7位という好成績をおさめました。
(早田さん)
「やっぱり6年間培ったパフォーマンスやバク転とかをなにか仕事に生かせるものがないのかなというのを(当時の)担任の先生に相談したら、”木下サーカスっていう求人があるけど受けてみるか?”って言われて、『ぜひ!』って。」
――――――――――――――――――――――――
いよいよ公演日がやってきました。
この日は、夏休みということもありお客さんも多く大盛況。会場は、熱気に包まれました。
舞台では、”ハイスピードローラースケーティング”に”七丁椅子の妙技”など、
様々なパフォーマンスがお客さんを魅了します。
プログラムの最後を飾るのは、”空中ブランコ”。高さは13m。ビルの四階に相当します。
ハラハラするパフォーマンスが繰り広げられる中、いよいよ早田さんの出番。
身軽で華麗な演技にお客さんも釘付けです。
終演後のお客さんインタビューでも真っ先に”空中ブランコ!””すごかった!”と出るほど。
観客を魅了する早田さん。その素顔とは―――?
――――――――――――――――――――――――
この日は、公演終わりに家族での団欒。仲が良いメンバーも合流してのお食事です。
(早田さん)
「(こういう食事は)よく行きますね。こういう場で話したほうが仕事に活きることが多くて。」
奥さんの菫さんも、サーカスのパフォーマー。
仲間として、そして家族として、早田さんを支えます。
(妻・菫さん)
「普通の家庭に比べたら(一緒にいる時間が)長いかもしれないです。」
「私が仕事復帰してからは、ほとんどの家事を(早田さんが)やってくれるんです。」
(早田さん)
「キツイこととかがあっても、娘のことを想ったら頑張れるし、全部を家族に捧げられるくらい。やっぱり子どもと嫁が大事です。生きがいですかね。」
――――――――――――――――――――――――
ショーの花形、空中ブランコに出演する早田さんですが、実は高所恐怖症。
(早田さん)
「ショーのオープニングにぐるぐる回る演目があるんですが、それを以前僕もやっていて。
その時に自律神経というか、急な発作みたいなのが出て、空中ブランコでも出始めて・・・
1回ブランコをやめるというか、また一から下から練習しようってなりました。」
およそ3年前。空中ブランコの舞台から一時おりることに。
(早田さん)
「必死でしたね。また舞台に立てるようにって。
同期がやっているのを下から眺めていて、”俺もまたあそこ立ちたいな”っていう気持ちで。
でもやっぱ怖さが勝っちゃったりとか。自分を奮い立たせながらやってて。
”また下でやったらできるから”とか励ましとか色々、同期が助けてくれたりとか。
そういうことがあって・・・また出られましたね。」
空中パフォーマーの先輩からはこんな声も。
(先輩・高岡さん)
「もともとクオリティが高いんで、ポテンシャルも高いんですが、
なかなか気持ち的に打ち勝てずに、新しいことにチャレンジをあまりしないので・・・
もうひとランク、技のレベルを上げるとか、やってもらいたいです。」
――――――――――――――――――――――――
公演終了後、新しいパフォーマンスに挑戦する早田さんの姿がありました。
(早田さん)
「綱渡りなんですけど、”坂綱”って呼んでいます。
下から上までロープを張ったのを、足の指で登っていくっていう技です。」
実は、9月22日からは宮崎公演が始まります。
そこで披露するために、2年前からこのパフォーマンスを特訓しています。
この”坂綱”も高さは10m越え。さらに、傾斜のある綱を背中で滑り落ちます。
(恩師・日高監督)
「今回の宮崎の公演も、ぜひみんな(小林秀峰高校 男子新体操部)で観に行きたいと思ってますし、(早田さんの姿を)今の子どもたちに見せるのも、すごく子どもたちにとってエネルギーになったり、励みになったりすると思うので、頑張ってもらいたいですね。」
”お~い!元気しちょる?”
恩師・日高監督から早田神龍さんに贈ったものとは・・・?
宮崎を感じる霧島焼酎と”小林秀峰タオル”。タオルは今年初めて作ったそう。
そして・・・小林秀峰高校農業科で作ったいちごジャムや乳酸飲料も。
(早田さん)
「懐かしい~!!僕も作ってましたよ。」
高校の後輩たちと日高監督のビデオメッセージにも笑顔の早田さん。
(早田さん)
「あとは、(宮崎公演の)舞台で見てもらえれば。」
後輩や恩師に魅せる演技、よりいっそう気合が入りますね。
(早田さん)
「前回(の宮崎公演)と全然やっていることも違うし、僕も結構成長していて、あの当時はあんまり思っていなかったことなんですけど、”感謝”を今は常に感じていますね。」
「人と人とのつながりもそうだし、監督であったり、家族であったり、同期に支えられて(ここまで来れたので)、、、。なので最近よくいう言葉が”感謝を伝える”ですね。」
「どこの公演でももちろんそうですけど、特に地元宮崎は感謝を伝えたい人がいっぱいいるので、”感謝”の気持ちでステージに立ちたいです。」
#36 キイロイゾウサン(お笑い芸人)
24年8月14日(水) 20:00
キイロイゾウサン(宮崎県出身)
東京・新宿にある、吉本興業運営の漫才劇場「ルミネtheよしもと」。
多くの人気芸人が舞台にたち、お客さんに笑いを届けています。
そこで前説として登場したのが、お笑いコンビ「キイロイゾウサン」。今回の主人公です。
ボケ担当のSIZUKUさんとツッコミの黒木さん、ともに宮崎出身です。
まだ正式な劇場メンバーではないですが、お笑いドリームを掴むために、今は下積み生活を送っています。
そんな、「キイロイゾウサン」に縁のある方が、宮崎市にいました。
SIZUKUさんと高校時代にお笑いコンビを組んでいた佐多さんです。
(SIZUKUさん)
「(佐多さんとは)”一番おもしろいやつ同士が組んだら学校でナンバーワンになれる”っていうピュアなハートだけで一緒にやってみましたね。
楽しかったです、すごく。それが(芸人を目指した)きっかけでもあります。」
(佐多さん)
「自分が一番面白いと思っていたので、SIZUKUさんから声がかかるとは思ってなくて嬉しかったですね」
佐多さんとコンビを組んだ経験が、SIZUKUさんのお笑いハートに火をつけたそうです。
2017年にはMRTの取材も受けたことのある2人。
しかし、佐多さんの就職が決まっていたこともあり、高校卒業を機に解散することに。
コンビを解散したSIZUKUさんは、お笑い芸人を目指して大阪へ。
そこで、大学進学で大阪に来ていた黒木さんと出会いました。
ふたりの出会いはSNS。同世代・同郷で、同じ場所を目指すふたりが打ち解けるには時間はかかりませんでした。
ふたりは「キイロイゾウサン」を結成し、大阪でフリーの芸人として活動した後、黒木さんの大学卒業に合わせて、3年前に上京。
吉本興業の養成所NSC東京校に入学しました。
(黒木さん)
「フリーの時と比べたら、オーディションの数ももちろん違いますし、先輩付き合いなども何十倍もありますね。(NSC東京校に)入ってよかったなと思います。」
NSC卒業後は、ライブやオーディションの合間に、近所の公園でネタの練習をしているんだそう。
(SIZUKUさん)
「(この公園は)家が近いっていうのと、(他にも)芸人がちらほら練習してるんですよ。」
(黒木さん)
「ステージっぽさもありますし、本番のイメージにもなるというか。」
――――――――――――――――――――――――
若手芸人の私生活を見せてもらうために黒木さんの自宅へ案内してもらいました。
(黒木さん)
「間取りは1Kですね。家賃は5万4000円です。」
この部屋でネタを考えることもしばしば。
(SIZUKUさん)
「僕が作ったネタを黒木くんになげて、黒木くんに訂正してもらうような流れです。」
「”早く見せたい”ってなった時は確定(に面白い)ですね。やっぱりウケたりします。」
――――――――――――――――――――――――
(SIZUKUさんの元相方・佐多さん)
「SNSで(キイロイゾウサンの)活動は結構見てたし、自分も何回かお笑い観に行かせてもらっています。
順調にいっているようなので、頑張ってもらいたいと思っています。」
徐々にファンも増え、ファンレターが届くことも。
(ファンレター)
「キイロイゾウサンのおふたりならどこまでも行けると思います。
私はそんなおふたりにどこまでもついていきます。ずっとずっと応援しています。」
(黒木さん)
「しんどい時とかは読んで励みにして、また頑張ろうと思えたりしますね。」
しかし、芸人としての収入は、月に1万円程度。
ほとんどの生活費は、アルバイトでまかなっています。
(黒木さん)
「僕はピザ配達をしていますね。」
取材の日、アルバイトの予定が入ってたSIZUKUさんに、ついて行ってみました。
――――――――――――――――――――――――
浅草橋にある創作和食のお店『酔壱や』。
ここで週に3回程度アルバイトをしています。
オーナーには、プライベートでもお世話になっているんだそう。
(SIZUKUさん)
「旅行も連れて行ってもらったり、店長とスナックに行ったり、めっちゃよくしてもらっています。」
(酔壱や店長・奥嶋さん)
「楽しく笑いながら仕事をしているので、ムードメーカーですね。
宮崎のお父さんお母さんの代わりだと思ってビシビシやっている感じです。」
――――――――――――――――――――――――
バイト終わりにコンビで乾杯。
(SIZUKUさん)
「(ふたりで飲みには)たま~にですね。」
「M-1ももちろん決勝に行きたいですし、番組もって2人でラジオずっとやっていたいなとか。
夢を語る時間もすごい好きですね。」
今年も2人はM-1グランプリにエントリー。頑張ってくださいね。
――――――――――――――――――――――――
翌日。2人の姿は、新宿のルミネtheよしもとにありました。
2人は、本公演の前の大事な仕事”前説”を任されています。
(黒木さん)
「開演前に、僕らが(ステージに)出て、観客を和ませて、最高の状態で始められるようにする感じですね。」
この日の出演者は、賞レースやテレビで活躍する豪華メンバーがズラリ。
2人は、開演前に10分間、会場の空気をあたためる役割です。
会場は、立ち見が出るほどの満席。
アドリブも交えながら会場を盛り上げます。
2人の前説を舞台袖から見守る男性がいました。
2009年のM-1王者、パンクブーブーのボケ担当、佐藤哲夫さんです。
(佐藤さん)
「(キイロイゾウサンのふたりは)NSCの時に僕の授業を受けたりして。NSCの頃からおしゃべりが非常にうまいコンビでしたよ。」
佐藤さんは、大分県出身。
キイロイゾウサンのことも、同じ九州出身として目にかけてくれています。
(佐藤さん)
「九州って、明るい土地なんですよ。みんなすごい楽しい土地なんで。」
「逆に言えば、みんなで楽しくみたいな気質があるので、ひとりでグッと面白くできる人って意外と少なかったりとか。」
「僕も大分出身ですからすぐ隣なので、何かすごい親近感が湧くのでね。」
「いつかは一緒に舞台に立てるように頑張ってほしいなと思います。」
(SIZUKUさん)
「まだ前説なので”赤い幕”の前なんですけど、希望を言えばもっと後ろの”マイクの前”で普通に漫才をやりたいなと。」
(佐多さん)
「(SIZUKUさんは)失敗を恐れないところが結構あるので、売れるまで絶対やめないタイプだと思います。いろんなテレビで活躍する姿を見たいです。」
――――――――――――――――――――――――
(SIZUKUさん)
「お笑いで世界を爆笑の渦にさせることが夢です。」
「一番面白いコンビになりたいです!」
わけもんを見ている宮崎県民のみなさんへ―――
「「これから僕らが、全国や宮崎の番組にどんどん出て、
どんどんどんどん面白くなるので、目を離さず見てくれよな!」」
検索
投稿月
-
2024年12月(1)
-
2024年11月(1)
-
2024年10月(1)
-
2024年9月(1)
-
2024年8月(1)
-
2024年7月(1)
-
2024年6月(1)
-
2024年5月(1)
-
2024年4月(1)
-
2024年3月(1)
-
2024年2月(1)
-
2024年1月(1)
-
2023年12月(1)
-
2023年11月(1)
-
2023年10月(1)
-
2023年9月(1)
-
2023年8月(1)
-
2023年7月(1)
-
2023年6月(1)
-
2023年5月(1)
-
2023年4月(1)
-
2023年3月(1)
-
2023年2月(1)
-
2023年1月(1)
-
2022年12月(1)
-
2022年11月(1)
-
2022年10月(1)
-
2022年9月(1)
-
2022年8月(1)
-
2022年7月(1)
-
2022年6月(1)
-
2022年5月(1)
-
2022年4月(1)
-
2022年3月(1)
-
2022年2月(1)
-
2022年1月(1)
-
2021年12月(1)
-
2021年11月(1)
-
2021年10月(1)
-
2021年9月(1)