#32 寺島啓祐(料理人)
24年4月3日(水) 20:00
寺島啓祐さん(都城市出身)
朝7時、東京・恵比寿の繁華街に、今回の主人公・寺島さんの姿がありました。
昨年4月に料理人になったばかりの寺島さん。
駆け出しの、1年目です。
まだ誰もいないお店で下準備を黙々とこなしていきます。
(寺島さん)
「自分が思っていたより、すごく厳しい世界だなって思いました。」
寺島さんが働くお店”MONNALISA”は、恵比寿店・丸の内店ともに、
これまで何度もミシュラン一つ星を獲得しているフランス料理の名店です。
――――――――――――――――――――――――
MONNALISAのオーナー・河野シェフは、川南町出身です。
以前、「わけもん!」の凄腕料理人リレーでご出演いただいたことも。
河野シェフは、25歳の時に単身でフランスへ。
最高級フレンチレストラン タイユバン・ロブション(現 ジョエル・ロブション)にて初代日本人シェフを務めた、世界でも指折りの料理人です。
(河野シェフ)
「この場所にくるとは、夢にも思っていなかったけれど、できたのは、自分で夢を描いて、頑張ろう!と思って、”自分を信じてやってきた”からだと思います。」
――――――――――――――――――――――――
現在、寺島さんが任されている料理は、前菜―――アミュ―ズ・ブーシュ。
(寺島さん)
「(食材を)柔らかくして、ミキサーにかけて、ピューレを作ります」
素早く、そして繊細に仕上げていきます。
厳しい視線で見守る、河野シェフ。
味のチェックが入ります。
(河野シェフ)
「味はいい感じ」
「たいしたもんや」
評価は上々。寺島さんの表情にも、笑みがこぼれます。
――――――――――――――――――――――――
寺島さんが料理人を目指した理由とは―――
(寺島さん)
「お父さんの姿を見て、すごくかっこいいなと思って。
自分がつくった料理でお客様を笑顔にできるってすごくいい仕事だなと思って。」
寺島さんの実家は、都城市にある”deja-vu”という、宮崎牛を扱ったレストラン。
啓祐さんは、幼いころから料理人になるのが夢でした。
(父・良幸さん)
「3~4歳の頃から”コックさんになる!”って(言っていた)。
家族でバーベキューとか行くと私の上に乗って肉を一生懸命焼いてましたね。」
高校時代は、甲子園を目指しながら、福岡の名門・九産大九州で学びます。
高校卒業後上京し、辻料理師専門学校へ。
在学中にフランスへ留学し、本場のフランス料理を学びました。
就職活動をする中で、一目ぼれしたのがここ、”MONNALISA”でした。
(寺島さん)
「(MONNALISAの料理が)美しいなと思って。本当にただそれだけで、(MONNALISAに)入ろうって思いました。」
寺島さんが心を奪われたという、美しい料理がこちら。
父・良幸さんも、MONNALISAに行きたいという啓祐さんの想いに、驚いたといいます。
(父・良幸さん)
「(卒業後)どうするんだって話をしたら、”MONNALISAというお店で働きたい”って。
私が20年くらい前に東京で修行していた当時でも、第一線のお店で。」
河野シェフとは、お会いしたことはなかったですけど、有名な方だったのでもちろん名前は知っていて。
そういうお店を選んだというのが驚いたし、嬉しかったですね。」
(河野シェフ)
「僕も宮崎出身なんで。彼もいつかは宮崎に帰って素晴らしいフレンチのフェアをやったりして、自分の名前を挙げていければいいかなと思っています。」
――――――――――――――――――――――――
この日、寺島さんは”あること”にチャレンジ。
”あること”とは―――
料理人たちが食べる”まかない”作り。
(寺島さん)
「麻婆豆腐を作ります。」
(先輩シェフ・河本さん)
「最初の方は仕事覚えるので手一杯なので、仕事に慣れてから徐々にまかないを作っていきます。」
まかないを作ることは、料理人にとって大切な学びの場でもあります。
先輩に教わりながらの調理です。
河野シェフにも、修行時代を振り返ってもらいました。
(河野シェフ)
「厳しい時代もじゃなくて、厳しい時代しかなかった。
朝7時から仕事行って、休憩もないし、昼飯も食べていないし、夕方1食だけ。で、夜があると11時、12時前。
家帰って、ばたんきゅーしたら目覚ましが聞こえない時代がいっぱいあった。」
河野シェフに、料理人に必要なことを聞いてみると。
(河野シェフ)
「出来の悪い子でも、コツコツやる子がのびる。」
「自分で選んだ職業だから続けなさい(と、いつも思っている)。」
するとここで、寺島さんのまかない料理が完成しました。
いざ、実食。
スタッフのみなさんから、”美味しい”という声が次々と聞こえてきます。
(河野シェフ)
「まかないが上手な人はみんな成功してる。」
――――――――――――――――――――――――
そしていよいよ、お店がオープン。
お客さんに料理をスムーズに提供するため、調理場は常に時間との闘いです。
(料理長・小暮さん)
「最初はできないのが当たり前なのでしんどいと思うけれど、それを乗り越えていくことが大事。(寺島さんの)これからが楽しみです。」
営業時間が終わり、後片付け。
家路に着くのは夜遅く・・・。
自宅には、こんなものが飾られていました。
”おこずかい がんばれ!けいすけ!”と書かれた紙。
(寺島さん)
「夏 帰省の時にお母さんからもらったお小遣いの中に手紙が入っていて。
気持ちが沈んだ時に、これを見て”やろう”っていう気持ちになれるように貼っています。期待に応えたい気持ちはすごくあります。」
”お~い!元気しちょる?”
宮崎・都城のご家族から寺島さんに贈ったものとは。
(寺島さん)
「(霧島を手にもって)僕の家にも、実家にも置いています。」と笑顔。
そして・・・お肉の塊!?
(父・良幸さん)
「妻の実家が牧場をしていまして、そこの、宮崎牛のサーロインロースです!」
(寺島さん)
「(このお肉で)まかない作ります!!(笑)」
(寺島さん)
「みんなの声援が力になったというか、また一から気持ちを作り直して頑張っていきたいと思います」
寺島さんが目指す料理人とは―――
(寺島さん)
「お客様を笑顔にできる料理人になりたいです」
#31 吉野慎之輔(ダンスボーカルユニットMADKID)
24年3月13日(水) 20:00
吉野慎之輔さん(宮崎市出身)
タワーレコード渋谷店に、今回の主人公の姿がありました。
宮崎市出身の吉野慎之輔さんは、ダンスボーカルグループMADKIDのメンバー・SHINとして活躍しています。
MADKIDは、アニメソングが海外を中心にヒットし、世界が注目するダンスボーカルグループとなりました。
(SHINさん)
「ありがたいことに、アニメを通して知ってくださる人が多いので、アニソンとしてのダンスボーカルで活躍できていることはすごくうれしいです。」
「でも、やっぱり、まだまだ日本にはMADKIDのことを知らない人たちが多いので、早く知ってもらえるように頑張らなきゃな!と思っています。」
SHINさんの母、智子さんも、息子の活躍を応援しています。
(母・智子さん)
「見るたびに涙が出るんですけど頑張ってきてよかったなと。まだまだこれからなんですけど。1人の人にでも夢とか希望を与えているのかなとは思います。」
小さい頃から、歌やダンスが大好きだったSHINさん。
人生を変えるほどの大きな出来事が起こったのは、10歳の頃でした。
Q.今でもその存在は大きいですか?
(SHINさん)
「そうですね。やっぱり自分のなかではめちゃくちゃに大きいですね、身近な家族を亡くした最初の出来事だったので。」
SHINさんは、9歳 年の離れた一番下の妹・里莉花ちゃんを白血病で亡くしています。
(SHINさん)
「白血病になったキッカケが僕だったんですよ」
「縁側で妹と2人で遊んでて…僕が目を離した隙に妹が縁側から落ちてしまって、目の上を大量出血しちゃって…
そこから病院に行ってなかなか治らなくて…たくさん検査をして、白血病だとわかったんです。」
(母・智子さん)
「意味が分からなかったと思うんですけど、血液の病気なんだよと伝えて。必ず治るって思ってたと思うんですよ。」
白血病になった里莉花ちゃんを救うために、ドナー登録をしたところ・・・
(母・智子さん)
「家族4人調べて、一致したのが慎之輔だったんです。」
患者とドナーの白血球の型が適合する確率は、数百分の一から数万分の一。
そのうち、実際に移植出来る人は半数程度にとどまっています。
SHINさんは、大切な妹のためにドナーとなり、骨髄を提供しました。
しかし―――
里莉花ちゃんは2歳7カ月で天国へと旅立ちました。
里莉花ちゃんが大好きだったSHINさんの歌とダンス。
(母・智子さん)
「(SHINさんが)歌っていると、(里莉花ちゃんが)笑ってくれたという印象が強かったみたいで、”歌って人に笑顔をあたえる”、”感動をあたえる”というのが(SHINさんのなかに)あったみたいです。」
(SHINさん)
「(この出来事で)人生変わりました。妹が亡くなる前までは、やっぱりまだ小学生だったんで、人にちょっかい出して悪いことしたり、悪口を言ってしまったりしてたんですけど、(この出来事があって)みんな大切に育てられて生きてる人たちばかりなので、この世の中。だからこそそういった人たちに変な言葉だとかをかけないようにしようというのは、妹が亡くなってから思うようになりました。」
――――――――――――――――――――――――
MADKIDのメンバーにSHINさんの人柄について聞いてみると
(メンバー・YUKIさん)
「100%で向き合う姿を見ていると僕も頑張らなきゃなと思うので、慎ちゃんにはすごく助けられています」
(メンバー・KAZUKIさん)
「”てげいい人”です」
実は、SHINさんは、7年前 MADKIDメンバーに誘われて途中加入したんです。
(メンバー・YOU-TAさん)
「前のメンバーが抜けたときに、4人になってしまって、ダンスボーカルグループとしては5人が形がきれいに取れるので誰か入れたいなと話をしていて。その時、唯一(名前が)挙がってたのがSHINだったんです。”SHIN以外(の人が加入するくらい)だったら4人でやろう”という気持ちで、当時から誘っていました。入りたいって言ってくれた時はめちゃめちゃ嬉しかったですね。」
(SHINさん)
「感謝でいっぱいですし、色々な巡り合わせというか運命でこうやってみんなと出会えて、入ることができて、ここまで活躍できているので嬉しいです。」
――――――――――――――――――――――――
現在、SHINさんは骨髄バンクの現状を知ってもらおうと理解を呼びかけるイベントに積極的に参加しています。
(SHINさん)
「ドナー登録だったり献血だったり、もっともっと広げて、たくさんの人達に広げられたらなと思っています。」
(母・智子さん)
「人の痛みと周りの方への感謝の気持ち・・・周りのみなさんのおかげで今の自分があるんだよということを時あるごとに話すんですけど、その気持ちだけを忘れずに頑張ってほしいなと思います。
”お~い!元気しちょる?”
宮崎から、母・智子さんがSHINさんに贈ったものとは・・・
霧島焼酎と、子どもの頃からの大好物だというチーズ饅頭。
(SHINさん)
「霧島のソーダ割にハマっているので、うれしいです!」
そして―――
11カ月で入院した里莉花ちゃんが、入院する直前まで履いていた小さな靴。
当時、SHINさんがプレゼントしたものなんだそう。
(母・智子さん)
「いつもは靴箱の一番下に、みんなの靴と(一緒に並べて)あるので、
本人も、これを見て頑張ってほしいなと。」
(SHINさん)
「思い出しますね。里莉花のことを。」
小さな靴を手に取り、優しい表情のSHINさん。
(SHINさん)
「(小さな足で)よく頑張ったなあと。大好きな存在です。」
――――――――――――――――――――――――
今年1月に発売された新曲「FLY」のプロモーションビデオは宮崎で撮影されました。
(メンバー・KAZUKIさん)
「(宮崎は)ごはんも、どこ行っても本当に美味しくて、街で出会う人もみんなめちゃめちゃいい人で。ここで育ってきたからこそ、今のこの慎ちゃんの性格・人柄になったのかなと思いましたね」
(SHINさん)
「たくさん、アニメのタイアップを歌わせてもらっているので、”アニソンだったらMADKID”って言ってもらえるような存在にまずはなって、あと、日本の中でもMADKIDを知らない人たちが多いので、もっともっと知ってもらえるように活動を頑張っていきたいなと思います。」
――――――――――――――――――――――――
SHINさんが大切にしている言葉があります。
”感謝” そして ”笑顔”
(SHINさん)
「まず、生きていることに感謝しなければならないし…妹の笑顔が忘れられないので、妹の分も背負って、自分が多くの人たちに笑顔を届けたいし、笑顔になってもらいたいなと。」
今、大好きな妹、里莉花ちゃんに伝えたいこととは
”ありがとう”
#30 髙石あかり(女優)
24年2月7日(水) 20:00
髙石あかりさん(宮崎市出身)
宮崎市出身の女優、髙石あかりさん。
髙石さんは、芸能事務所エイベックスに所属する、今注目の若手女優です。
この日は千葉県木更津市で映画の撮影。
(髙石さん)
「(演技の仕事は)楽しいですね。毎日、超楽しいです。毎日現場にきて・・・。
もう、今回の現場は、朝早かったんですけど、現場に来るのが楽しみで。
そういう現場に出会えるっていうのも、すごくありがたいことだなあと思います。」
髙石さんをこの映画の主演に抜擢した園村監督も、髙石さんの女優としての表現力に期待しています。
(監督・園村健介さん)
「(髙石さんの)人柄はすごく接しやすいですね。僕の想像以上のものを必ずだしてくれる。
ただ、(自分も)あんまりそこまで注文が多くないので、ニュアンスで伝えると
(それに応じた)パターンをいくつか出してくれるので、とてもやりやすいですね。」
髙石さんが女優に憧れを持ったのは、保育園に通っていた頃。
(髙石さん)
「保育園生のときに、ドラマの『花より男子』を見て、女優になりたいって(思いました)。
なんでその時思ったのかというのは、もう記憶にはないんですけど、例えば小学校の卒業アルバムとかそういうのには、
こう、変わらずずっと女優になりたいとだけはずっと残っていて。」
「”女優”って言っていただきますけど、まだ私の中では女優を夢見ているというか。」
髙石さんの小学校からの友人に、髙石さんの学生時代をきいてみると―――
(友人・尾崎友紀子さん)
「”女優になりたい”というのを、気付いたらずっと言っていたので、本当になってすごいなあっていう感覚ですね。」
――――――――――――――――――――――――
髙石さんが、女優としての注目を集めた作品『ベイビーわるきゅーれ』
その演技力が評価され、第15回TAMA映画賞・最優秀新進女優賞を受賞しました。
(プロデューサー・角田陸さん)
「『ベイビーわるきゅーれ』に関しては、当て書きだったんですよ。
髙石さんだったらこういう言い回しするかな、こういう動きするかなっていうので、阪元監督が脚本を書いて。」
髙石さんの、女優としての魅力とは―――
(プロデューサー・角田陸さん)
「分からない事を、受け止める力がすごい強いなっていうのは思っていて。『ベイビーわるきゅーれ』って殺し屋の映画
なんですけど、殺し屋なんて誰もやったことないし分からないじゃないですか。
それでも”元女子高生の殺し屋だよ”って言った時に、分からないで止めるんじゃなくて、それを受け止めて、
彼女なりにどうやったらポップでチャーミングなキャラクターにできるんだろう(と、しっかり考えていた)」
映画の撮影は、早朝から深夜までかかることも。
監督のOKが出るまで同じシーンを何度も撮影します。
(監督・園村健介さん)
「(髙石さんは)すごく努力家なんですよね。アクションとかも練習やって、それで、2回目の練習に来るときには、
1回目でやってきたことをちゃんと復習してきたことがわかるんですよ。
「人によっては、前回やったことを”あれ、これなんでしたっけ?”って忘れちゃってる人もいるんですけど、(髙石さんは)それが絶対ないですね。」
女優の道を着実に歩んでいる髙石さんですが、まだまだ21歳。
時には、悩むことも・・・
(髙石さん)
「ちっちゃな目標が作れないタイプで。
大きい(目標を)掲げていることが幸せだし、逆に(大きな目標を)掲げていることで、
今の自分とのギャップに苦しくなったりもするんですけど・・・。」
そんな髙石さんは、ある監督からもらった言葉を大切にしています。
”諦める”
(髙石さん)
「私何事にも本当に、お芝居に関しては猪突猛進というか。
私は”諦める”って言葉が、今まではそんなになんか得意じゃなかったんですけど、
(今は)1つの手法としてすごい素敵だなと思うようになりました。
自分のお芝居に集中してたけど、全体のお芝居に目が行ったりとか、現場とか、
そういったところではすごくありがたい言葉をいただいたなと思います。」
――――――――――――――――――――――――
髙石さんには、ふるさと宮崎を思い出す味があるようで・・・
(髙石さん)
「一番好きなソフトクリームは、尾崎商店のほうじ茶ソフトクリーム。」
髙石さんの友人・尾崎友紀子さんの実家である尾崎商店で食べられるソフトクリーム。
その思い出とは?
(髙石さん)
「(尾崎商店の)お手伝いしたらもらえるんですよ(笑)。」
(友人母・尾崎裕子さん)
「お手伝いしてくれた時に、”お疲れ様”の気持ちを込めて。娘とふたりでよく食べていたんです。」
(髙石さん)
「(気持ちとしては)尾崎家のもう1人の子どもみたいな。”帰る場所がある”って、ものすごく素敵だと思います。」
”お~い!元気しちょる?”
そんな尾崎親子から髙石さんに贈ったものとは―――
霧島の焼酎や辛麺、地鶏・・・そして。
(友人母・尾崎裕子さん)
「あかりちゃんの大好きな、ほうじ茶ミルクソフトクリームの永久チケットです!」
これには髙石さんもご満悦な表情。
(髙石さん)
「(2人の存在は)心強いですね。帰ったら待ってくれてるというか。迎え入れてくれる人たちがいて。
だからこそ私は東京で頑張って、そこから宮崎を知ってくれる人が1人でもいたら幸せだなと思います。」
髙石さんの、今の想いとは―――
(髙石さん)
「”初志貫徹”という言葉をいただいたことがあって。
小さい頃から女優になりたいと思っていて、今も変わらず(この仕事が)好きだなあというのは、
すごくこの言葉が自分に当てはまるような気もするし、これからもその気持ちを忘れずに周りへの感謝など、
今感じている気持ちを、10年後も20年後も持っていたらいいなと思います。」
髙石さんの目指す女優とは・・・?
(髙石さん)
「”髙石あかりにしかできないお芝居”、そう言ってもらえる女優さんになりたいと思って。
好きなことをやれているということのありがたみをちゃんと感じながら、お芝居していたいなと思います。」
#29 杉田智紀(合唱団 WAKAGE NO ITARI代表)
24年1月10日(水) 20:00
杉田智紀さん(宮崎市出身)
今回の主人公の恩師、有川サチ子さんに話を伺いました。
主人公はどんな方ですか?
(有川さん)
「とても熱心ですてきな生徒でした」
主人公は今、どこで何をされているんですか?
(有川さん)
「東京で、合唱団をもっています」
―――ということで、関東へ。
今回の主人公はこの日、千葉県の合唱イベントに出演するため、ホールにいました。
宮崎市出身の、杉田智紀さんです。
杉田さんは仕事の傍ら、4年前に男声合唱団「WAKAGE NO ITARI」を結成しました。
その合唱団は一昨年、全日本合唱コンクール 全国大会で金賞、そして日本一となる文部科学大臣賞を受賞するほどの実力。
―――そもそも、どうして合唱団を結成しようとおもったんですか?
(杉田さん)
「今一度、やっぱり学生時代のメンバーたちと歌いたいなと想いや、
元々自分の夢・目標だった”自分の合唱団を立ち上げてみたいな”という想いがありまして、
大学時代の友人知人に声をかけて立ち上げたのが、合唱団”WAKAGE NO ITARI”になります。」
”WAKAGE NO ITARI”は、現在40人を超えるアマチュア男声合唱団。
月に5回、平日の夜や休日に、都内の公民館などで練習を重ねています。
気になる合唱団の名前の由来を、団名の名付け親である小林さんに伺いました。
(小林さん)
「ちょっと(他の団体とは)違う毛色の名前にしたいなと漠然に思っていて、色々浮かんだ中の1つにコレがあって。
略して”ワカゲ”とも言いやすいかなと思って(この名前を付けました)。」
”ワカゲ”のみなさんが日本一になった理由はなんだと思いますか?
(指揮者・真下さん)
「集まった人の想いが結実したのかなと(思います。)
常々思うんですが、この合唱団は”人に恵まれている”と本当に思います!」
――――――――――――――――――――――――
杉田さんの本業は、システムエンジニア。
合唱との出会いは、意外にも些細なことからでした。
今から15年前、中学3年生の時・・・
(杉田さん)
「野球部を引退した頃、学校の合唱部で”男子が少ないから手伝って!”と言われたことがきっかけになりまして、合唱を始めました。」
県大会で見事金賞を受賞し、九州大会への出場を決めたのですが・・・
新型インフルエンザが全国的に流行。
杉田さんの学校でも猛威を振るい、九州大会への出場を断念してしまいました。
このことがきっかけで、合唱への想いに火が付きます。
県立高校を受験予定だったところ急遽進路変更し、宮崎学園へ進学することに・・・!
(杉田さん)
「(両親は)正直、かなりびっくりしていましたし、合唱を始めてまだ数カ月ということだったので
”音楽でごはんを食べるわけではないんだから”と最初は反対されました。」
そして両親を説得し、合唱の名門・宮崎学園高校へと進学。
そこで、恩師・有川先生との運命の出会いをします。
(有川さん)
「彼の場合は、本当に”音楽がやりたい!”とのことで来てくれたんだなと思うんですけど、その想いはずっと続いていましたので、
”あ~いい子だな”と思って目をかけてきたつもりです。」
杉田さんは高校3年間合唱部に所属し、見事日本一に。
恩師・有川先生の言葉が、今でも心の支えになっています。
”順位ではなく、合唱 ――音楽を続けていくことが、これからの人生を豊かにする”
この言葉を胸に、杉田さんは高校卒業後も合唱を続けてきました。
―――合唱団を立ち上げる際、大変だったことは?
(杉田さん)
「やっぱり最初は何といっても、メンバー集めというところで、ゼロからのスタートだったので、
大学時代の同級生だったり他の合唱団で歌っていた知り合いだったりにかたっぱしから声をかけていきました。」
(団員)
「ちょうど大学が東京圏内にいたので、誘ってもらった。(杉田さんは)高校の先輩なので・・・人生の先輩(のような存在。)」
(団員)
「(杉田さんは)もう、サイコーです!」
「人生の中で、柱を何本も作っておくことはすごく大事だと思っていて。
生きていく上で(仕事で)悩みとかもあるんですけど、その時は合唱に振り切っていくと、自然と悩みも発散されていくというか。」
――――――――――――――――――――――――
合唱団”WAKAGE NO ITARI”の事務所はどこに・・・?
杉田さんに着いていくと、たどり着いたのはなんと中国料理屋”北京”。
学生時代から合唱の打ち上げで使っていた中華料理店が、事務所代わりになっています。
(杉田さん)
「全国大会金賞の盾を飾らせてもらっています。」
(店主夫妻)
「(杉田さんは)まじめでいい子です。」
「金賞を取った時、とても嬉しかったです。
合唱団の皆さんがここに集まるので、常に後ろにあったほうがいいかなと思って(盾を飾っている)。」
(杉田さん)
「これからも応援してもらえるように、僕たちも頑張ります!」
そして、WAKAGE NO ITARIには特徴的なことがもうひとつあります。
それは、『男声合唱団』に女性が在籍していること。
(女性団員・宗田さん)
「男声合唱というところに女の子でも壁を感じずに活動できるようになって。
”ワカゲ”は、女子はいなかったんですけど、”ファーストペンギン”になってみました。」
「女子が少なくても、そこに壁をつくるような団員もいないし、そこで差別するようなことも一切なく、
分け隔てなく純粋に男声合唱を楽しめることが魅力かなと思います。」
そして、こんなHAPPYな出来事も―――
(杉田さん)
「お酒の席で、”可愛い子いるから来ないか?”と声をかけたことがきっかけで、ふたりが付き合うことになったので、仲人ということになってますね(笑)」
宗田さんと杉田さんのご友人が交際・結婚まで発展。
まさかの恋のキューピットは杉田さんでした。
――――――――――――――――――――――――
合唱団”WAKAGE NO ITARI”は現在、小学校や福祉施設などを訪問し、その魅力を伝えています。
(杉田さん)
「やっぱりなんといっても、”音楽をみんなで作る”ところが大きな魅力だと思っています。」
「合唱は、合わせて歌うと書きますけれど、1人じゃ合唱は出来ないし、
そこで出会えた仲間とともにゼロから音楽を作っていく、そしてホールで発表するということで、
ゼロからできたものをみんなで作り上げる喜びというところが合唱の魅力だと思っています。」
―――杉田さんにとって、合唱とは?
(杉田さん)
「やっぱり、”人生”です!
なかなか出来ないことや不安なこと、大変なこともたくさんあるんですけれど、
ひとつずつその壁を超えながら楽しい本番に向かって、みんなで頑張っていくというところが、
まさしく人生そのものなのではないかなと思います。」
#28 才藤大芽(マジシャン)
23年12月6日(水) 20:00
才藤大芽さん(宮崎市出身)
東京・港区六本木のマジックバー・OSMANDに、今回の主人公の姿がありました。
宮崎市出身のマジシャン、才藤大芽さんです。
才藤さんは、2018年に、マジック界、世界最高峰の大会ワールドチャンピオンシップ”FISM”でテクニック部門世界7位に輝きました。
どうしてマジシャンの道へ―――?
(才藤さん)
「大学入学時に、マジックサークルから勧誘を受けまして、軽い気持ちで観に行ったマジックショーが、すごくかっこよかったんですよね。
信じられない気持ちと、自分の知らない世界がバッと拓けた気持ちと・・・。」
才藤さんが通った日向学院高校の恩師・福島さんは、才藤さんがマジシャンになったことをどう感じていたのでしょうか・・・
(恩師・福島さん)
「京都大学の工学部に進学されたので、研究職につくとばかり思っていました。
マジシャンと聞いたときには大変驚きました。」
才藤さんの印象をきいてみると―――
(恩師・福島さん)
「数学がとても得意で、センター試験は数学200点満点でした。総合得点が5教科で9割をこえていました・・・!」
日向学院時代、才藤さんは生徒会活動のほかに、美術部・バンド活動・体育祭の応援団長など、様々なことに積極的に取り組んでいました。
実は当時は神戸大学を目指していたそうなんですが・・・
(才藤さん)
「初めて受けた模試で(志望校を)神戸大学電気電子工学科と書いて、その結果がA判定だったんですよ。
じゃあ、僕は高校3年間なんのために勉強するんだろう・・・?と思ったんですけど。
次の模試でダメ元で京都大学電気電子工学科を書いてみたら、B判定だったんです。これは面白いなと感じて。
京都大学A判定にすることを(高校3年間の)目標にしました。1日18時間勉強しましたね。」
才藤さんは、恩師・福島先生の熱心な学習指導が大学合格へつながったと語ります。
(才藤さん)
「(福島先生は)僕がやることを全て肯定してくれていたので、”僕はこのままでいいんだ、このまま大人になればいいんだ”と思ってました。」
そして、念願の京都大学に現役合格・・・! でしたが・・・。
(才藤さん)
「京都大学って、結構変わった講義をされるんですよ。一番最初の授業で言われたのが、”高校までに学んだ知識はすべて」忘れろ”っていう言葉でした。あんなに頑張ったのに・・・って(思いました)(笑)」
京都大学電気電子学科卒業後は韓国でマジシャンLucasに師事し、世界一のマジシャンを目指し修行した才藤さん。
現在は、東京でマジックショーに出演したり、テレビ番組やイベントなどでマジックを披露する日々を過ごしています。
(マジックバー・OSMAND
エグゼクティブ・プロデューサー 高山さん)
「京大出身のマジシャンということで、非常にインテリジェンスが高くて。
ちょっと普通に考えると、(京大まで行ってマジシャンをしてて)”親は泣くんじゃないか?”っていつも彼には言ってるんですけど・・・。
才能ももちろんですけども”情熱”がなければたぶん出来ないことだと思いますね。」
(京都大学卒・後輩マジシャン 鈴木さん)
「(才藤さんは)雲の上の存在というか、もう立ち姿やカードの出し方から全部かっこよくて美しくて、そこに憧れました。」
才藤さんにとって、マジックの魅力とは―――
(才藤さん)
「お笑いに例えさせてもらうと・・・。お笑いって結構好き嫌いがあると思うんですよ。”笑い”という感情は好みが分かれますよね。
(それに対し)”驚き”は、”驚き”というジャンルの1つでしかない。」
「驚いた人間は、急に心の扉を開いてくれるようになるんですよ。すごく強いつながりが生まれる瞬間なんです。」
「そしてマジックには言葉がいらないんです。
これは、日本に限らず全世界の人間に同じことができると考えれば、これほど強いものはないと僕は思ってます。」
”世界一のマジシャンになりたい”
しかし、その道のりは苦難の連続でした。
(才藤さん)
「(新型コロナの流行で)人が集まれないし、人と人とが会えないという状況でマジックは成立しないので、
ああいうことが起こると”こんなにも仕事がなくなるんだなあ”と(感じました)。」
マジックが披露出来ない日々が続きましたが、才藤さんは挫けません。
(才藤さん)
「”人生の心配事の7、8割は無駄”という言葉がありまして。その心配事をしてる時間になにか面白いものを生み出したほうがいい。
僕はひたすら面白いものを作っておこう(と思った。)」
――――――――――――――――――――――――
才藤さんには、マジシャンとは違う別の顔がありました。
――それは、謎解きのプロデューサー。
訪れたのは、タンブルウィード ナゾベース下北沢。
(才藤さん)
「みんなが(謎解きをしていて)頭の中で完結していることが、マジックとして目の前で起こると、
これはエンターテインメントとして凄くマッチしている、と考えています。」
(タンブルウィード謎解き製作者・小池さん)
「(才藤さんは)エンターテインメントということに関して常に考えているんだな、研究しているんだろうなと(感じる)。
マジックと何かをかけ合わせたらどうなるんだろう、ということを考えていらっしゃって、すごい(と思う)!」
才藤さんにとって、マジックとは―――
(才藤さん)
「画家にとっての絵具。画家って、自分の思っている世界を表現するのに絵具が必要だと思うんですよね。
絵具が無ければ、画家は言葉では自分の世界を表現できない。それが、僕にとってのマジック。
本来、人生には必要のなかったものが、今、僕にとってはなくてはならないものになりました。
多分、僕からマジックをとったら屍しか残らない、それくらいのものだと思っています。」
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