#30 髙石あかり(女優)

お~い!元気しちょる?

24年2月7日(水) 20:00

髙石あかりさん(宮崎市出身)

 

宮崎市出身の女優、髙石あかりさん。

 

 

髙石さんは、芸能事務所エイベックスに所属する、今注目の若手女優です。

 

この日は千葉県木更津市で映画の撮影。

 

(髙石さん)

「(演技の仕事は)楽しいですね。毎日、超楽しいです。毎日現場にきて・・・。

 もう、今回の現場は、朝早かったんですけど、現場に来るのが楽しみで。

 そういう現場に出会えるっていうのも、すごくありがたいことだなあと思います。」

 

 

 

髙石さんをこの映画の主演に抜擢した園村監督も、髙石さんの女優としての表現力に期待しています。

 

(監督・園村健介さん)

「(髙石さんの)人柄はすごく接しやすいですね。僕の想像以上のものを必ずだしてくれる。

 ただ、(自分も)あんまりそこまで注文が多くないので、ニュアンスで伝えると

 (それに応じた)パターンをいくつか出してくれるので、とてもやりやすいですね。」

 

髙石さんが女優に憧れを持ったのは、保育園に通っていた頃。

 

(髙石さん)

「保育園生のときに、ドラマの『花より男子』を見て、女優になりたいって(思いました)。

 なんでその時思ったのかというのは、もう記憶にはないんですけど、例えば小学校の卒業アルバムとかそういうのには、

 こう、変わらずずっと女優になりたいとだけはずっと残っていて。」

「”女優”って言っていただきますけど、まだ私の中では女優を夢見ているというか。」

 

髙石さんの小学校からの友人に、髙石さんの学生時代をきいてみると―――

 

(友人・尾崎友紀子さん)

「”女優になりたい”というのを、気付いたらずっと言っていたので、本当になってすごいなあっていう感覚ですね。」

 

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髙石さんが、女優としての注目を集めた作品『ベイビーわるきゅーれ』

その演技力が評価され、第15回TAMA映画賞・最優秀新進女優賞を受賞しました。

 

 

 

(プロデューサー・角田陸さん)

「『ベイビーわるきゅーれ』に関しては、当て書きだったんですよ。

 髙石さんだったらこういう言い回しするかな、こういう動きするかなっていうので、阪元監督が脚本を書いて。」

 

髙石さんの、女優としての魅力とは―――

 

 

(プロデューサー・角田陸さん)

「分からない事を、受け止める力がすごい強いなっていうのは思っていて。『ベイビーわるきゅーれ』って殺し屋の映画

 なんですけど、殺し屋なんて誰もやったことないし分からないじゃないですか。

 それでも”元女子高生の殺し屋だよ”って言った時に、分からないで止めるんじゃなくて、それを受け止めて、

彼女なりにどうやったらポップでチャーミングなキャラクターにできるんだろう(と、しっかり考えていた)」

 

映画の撮影は、早朝から深夜までかかることも。

監督のOKが出るまで同じシーンを何度も撮影します。

 

(監督・園村健介さん)

「(髙石さんは)すごく努力家なんですよね。アクションとかも練習やって、それで、2回目の練習に来るときには、

 1回目でやってきたことをちゃんと復習してきたことがわかるんですよ。

「人によっては、前回やったことを”あれ、これなんでしたっけ?”って忘れちゃってる人もいるんですけど、(髙石さんは)それが絶対ないですね。」

 

女優の道を着実に歩んでいる髙石さんですが、まだまだ21歳。

時には、悩むことも・・・

 

(髙石さん)

「ちっちゃな目標が作れないタイプで。

 大きい(目標を)掲げていることが幸せだし、逆に(大きな目標を)掲げていることで、

 今の自分とのギャップに苦しくなったりもするんですけど・・・。」

 

そんな髙石さんは、ある監督からもらった言葉を大切にしています。

 

”諦める”

 

(髙石さん)

「私何事にも本当に、お芝居に関しては猪突猛進というか。

 私は”諦める”って言葉が、今まではそんなになんか得意じゃなかったんですけど、

 (今は)1つの手法としてすごい素敵だなと思うようになりました。

 自分のお芝居に集中してたけど、全体のお芝居に目が行ったりとか、現場とか、

 そういったところではすごくありがたい言葉をいただいたなと思います。」

 

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髙石さんには、ふるさと宮崎を思い出す味があるようで・・・

 

(髙石さん)

「一番好きなソフトクリームは、尾崎商店のほうじ茶ソフトクリーム。」

 

 

髙石さんの友人・尾崎友紀子さんの実家である尾崎商店で食べられるソフトクリーム。

その思い出とは?

 

(髙石さん)

「(尾崎商店の)お手伝いしたらもらえるんですよ(笑)。」

 

 

 

(友人母・尾崎裕子さん)

「お手伝いしてくれた時に、”お疲れ様”の気持ちを込めて。娘とふたりでよく食べていたんです。」

 

(髙石さん)

「(気持ちとしては)尾崎家のもう1人の子どもみたいな。”帰る場所がある”って、ものすごく素敵だと思います。」

 

 

”お~い!元気しちょる?”

 

 

そんな尾崎親子から髙石さんに贈ったものとは―――

 

霧島の焼酎や辛麺、地鶏・・・そして。

 

(友人母・尾崎裕子さん)

「あかりちゃんの大好きな、ほうじ茶ミルクソフトクリームの永久チケットです!」

 

これには髙石さんもご満悦な表情。

 

(髙石さん)

「(2人の存在は)心強いですね。帰ったら待ってくれてるというか。迎え入れてくれる人たちがいて。

 だからこそ私は東京で頑張って、そこから宮崎を知ってくれる人が1人でもいたら幸せだなと思います。」

 

髙石さんの、今の想いとは―――

 

(髙石さん)

「”初志貫徹”という言葉をいただいたことがあって。

 小さい頃から女優になりたいと思っていて、今も変わらず(この仕事が)好きだなあというのは、

 すごくこの言葉が自分に当てはまるような気もするし、これからもその気持ちを忘れずに周りへの感謝など、

 今感じている気持ちを、10年後も20年後も持っていたらいいなと思います。」

 

髙石さんの目指す女優とは・・・?

 

(髙石さん)

「”髙石あかりにしかできないお芝居”、そう言ってもらえる女優さんになりたいと思って。

 好きなことをやれているということのありがたみをちゃんと感じながら、お芝居していたいなと思います。」

 

#29 杉田智紀(合唱団 WAKAGE NO ITARI代表)

お~い!元気しちょる?

24年1月10日(水) 20:00

杉田智紀さん(宮崎市出身)

今回の主人公の恩師、有川サチ子さんに話を伺いました。

主人公はどんな方ですか?

(有川さん)
「とても熱心ですてきな生徒でした」

主人公は今、どこで何をされているんですか?

(有川さん)
「東京で、合唱団をもっています」


―――ということで、関東へ。

今回の主人公はこの日、千葉県の合唱イベントに出演するため、ホールにいました。
宮崎市出身の、杉田智紀さんです。

杉田さんは仕事の傍ら、4年前に男声合唱団「WAKAGE NO ITARI」を結成しました。
その合唱団は一昨年、全日本合唱コンクール 全国大会で金賞、そして日本一となる文部科学大臣賞を受賞するほどの実力。

―――そもそも、どうして合唱団を結成しようとおもったんですか?

 

(杉田さん)
「今一度、やっぱり学生時代のメンバーたちと歌いたいなと想いや、
 元々自分の夢・目標だった”自分の合唱団を立ち上げてみたいな”という想いがありまして、
 大学時代の友人知人に声をかけて立ち上げたのが、合唱団”WAKAGE NO ITARI”になります。」

”WAKAGE NO ITARI”は、現在40人を超えるアマチュア男声合唱団。
月に5回、平日の夜や休日に、都内の公民館などで練習を重ねています。

気になる合唱団の名前の由来を、団名の名付け親である小林さんに伺いました。

(小林さん)
「ちょっと(他の団体とは)違う毛色の名前にしたいなと漠然に思っていて、色々浮かんだ中の1つにコレがあって。
 略して”ワカゲ”とも言いやすいかなと思って(この名前を付けました)。」

”ワカゲ”のみなさんが日本一になった理由はなんだと思いますか?

(指揮者・真下さん)
「集まった人の想いが結実したのかなと(思います。)
 常々思うんですが、この合唱団は”人に恵まれている”と本当に思います!」


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杉田さんの本業は、システムエンジニア。
合唱との出会いは、意外にも些細なことからでした。

今から15年前、中学3年生の時・・・

(杉田さん)
「野球部を引退した頃、学校の合唱部で”男子が少ないから手伝って!”と言われたことがきっかけになりまして、合唱を始めました。」

県大会で見事金賞を受賞し、九州大会への出場を決めたのですが・・・

新型インフルエンザが全国的に流行。
杉田さんの学校でも猛威を振るい、九州大会への出場を断念してしまいました。

このことがきっかけで、合唱への想いに火が付きます。
県立高校を受験予定だったところ急遽進路変更し、宮崎学園へ進学することに・・・!

(杉田さん)
「(両親は)正直、かなりびっくりしていましたし、合唱を始めてまだ数カ月ということだったので
 ”音楽でごはんを食べるわけではないんだから”と最初は反対されました。」

そして両親を説得し、合唱の名門・宮崎学園高校へと進学。
そこで、恩師・有川先生との運命の出会いをします。


 

(有川さん)
「彼の場合は、本当に”音楽がやりたい!”とのことで来てくれたんだなと思うんですけど、その想いはずっと続いていましたので、
 ”あ~いい子だな”と思って目をかけてきたつもりです。」

杉田さんは高校3年間合唱部に所属し、見事日本一に。
恩師・有川先生の言葉が、今でも心の支えになっています。

”順位ではなく、合唱 ――音楽を続けていくことが、これからの人生を豊かにする”

この言葉を胸に、杉田さんは高校卒業後も合唱を続けてきました。



―――合唱団を立ち上げる際、大変だったことは?

(杉田さん)
「やっぱり最初は何といっても、メンバー集めというところで、ゼロからのスタートだったので、
 大学時代の同級生だったり他の合唱団で歌っていた知り合いだったりにかたっぱしから声をかけていきました。」

(団員)
「ちょうど大学が東京圏内にいたので、誘ってもらった。(杉田さんは)高校の先輩なので・・・人生の先輩(のような存在。)」
(団員)
「(杉田さんは)もう、サイコーです!」
「人生の中で、柱を何本も作っておくことはすごく大事だと思っていて。
 生きていく上で(仕事で)悩みとかもあるんですけど、その時は合唱に振り切っていくと、自然と悩みも発散されていくというか。」


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合唱団”WAKAGE NO ITARI”の事務所はどこに・・・?

杉田さんに着いていくと、たどり着いたのはなんと中国料理屋”北京”。
学生時代から合唱の打ち上げで使っていた中華料理店が、事務所代わりになっています。

(杉田さん)
「全国大会金賞の盾を飾らせてもらっています。」

(店主夫妻)
「(杉田さんは)まじめでいい子です。」
「金賞を取った時、とても嬉しかったです。
 合唱団の皆さんがここに集まるので、常に後ろにあったほうがいいかなと思って(盾を飾っている)。」

(杉田さん)
「これからも応援してもらえるように、僕たちも頑張ります!」


そして、WAKAGE NO ITARIには特徴的なことがもうひとつあります。

それは、『男声合唱団』に女性が在籍していること。

(女性団員・宗田さん)
「男声合唱というところに女の子でも壁を感じずに活動できるようになって。
 ”ワカゲ”は、女子はいなかったんですけど、”ファーストペンギン”になってみました。」
「女子が少なくても、そこに壁をつくるような団員もいないし、そこで差別するようなことも一切なく、
 分け隔てなく純粋に男声合唱を楽しめることが魅力かなと思います。」

そして、こんなHAPPYな出来事も―――

(杉田さん)
「お酒の席で、”可愛い子いるから来ないか?”と声をかけたことがきっかけで、ふたりが付き合うことになったので、仲人ということになってますね(笑)」

宗田さんと杉田さんのご友人が交際・結婚まで発展。
まさかの恋のキューピットは杉田さんでした。


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合唱団”WAKAGE NO ITARI”は現在、小学校や福祉施設などを訪問し、その魅力を伝えています。

(杉田さん)
「やっぱりなんといっても、”音楽をみんなで作る”ところが大きな魅力だと思っています。」
「合唱は、合わせて歌うと書きますけれど、1人じゃ合唱は出来ないし、
 そこで出会えた仲間とともにゼロから音楽を作っていく、そしてホールで発表するということで、
ゼロからできたものをみんなで作り上げる喜びというところが合唱の魅力だと思っています。」


―――杉田さんにとって、合唱とは?

(杉田さん)
「やっぱり、”人生”です!
 なかなか出来ないことや不安なこと、大変なこともたくさんあるんですけれど、
 ひとつずつその壁を超えながら楽しい本番に向かって、みんなで頑張っていくというところが、
 まさしく人生そのものなのではないかなと思います。」



 

#28 才藤大芽(マジシャン)

お~い!元気しちょる?

23年12月6日(水) 20:00

才藤大芽さん(宮崎市出身)

東京・港区六本木のマジックバー・OSMANDに、今回の主人公の姿がありました。
宮崎市出身のマジシャン、才藤大芽さんです。



才藤さんは、2018年に、マジック界、世界最高峰の大会ワールドチャンピオンシップ”FISM”でテクニック部門世界7位に輝きました。

どうしてマジシャンの道へ―――?

(才藤さん)
「大学入学時に、マジックサークルから勧誘を受けまして、軽い気持ちで観に行ったマジックショーが、すごくかっこよかったんですよね。
 信じられない気持ちと、自分の知らない世界がバッと拓けた気持ちと・・・。」



才藤さんが通った日向学院高校の恩師・福島さんは、才藤さんがマジシャンになったことをどう感じていたのでしょうか・・・

(恩師・福島さん)
「京都大学の工学部に進学されたので、研究職につくとばかり思っていました。
 マジシャンと聞いたときには大変驚きました。」

才藤さんの印象をきいてみると―――

(恩師・福島さん)
「数学がとても得意で、センター試験は数学200点満点でした。総合得点が5教科で9割をこえていました・・・!」

日向学院時代、才藤さんは生徒会活動のほかに、美術部・バンド活動・体育祭の応援団長など、様々なことに積極的に取り組んでいました。
実は当時は神戸大学を目指していたそうなんですが・・・

(才藤さん)
「初めて受けた模試で(志望校を)神戸大学電気電子工学科と書いて、その結果がA判定だったんですよ。
 じゃあ、僕は高校3年間なんのために勉強するんだろう・・・?と思ったんですけど。
 次の模試でダメ元で京都大学電気電子工学科を書いてみたら、B判定だったんです。これは面白いなと感じて。
 京都大学A判定にすることを(高校3年間の)目標にしました。1日18時間勉強しましたね。」

才藤さんは、恩師・福島先生の熱心な学習指導が大学合格へつながったと語ります。

(才藤さん)
「(福島先生は)僕がやることを全て肯定してくれていたので、”僕はこのままでいいんだ、このまま大人になればいいんだ”と思ってました。」

そして、念願の京都大学に現役合格・・・!  でしたが・・・。

(才藤さん)
「京都大学って、結構変わった講義をされるんですよ。一番最初の授業で言われたのが、”高校までに学んだ知識はすべて」忘れろ”っていう言葉でした。あんなに頑張ったのに・・・って(思いました)(笑)」

京都大学電気電子学科卒業後は韓国でマジシャンLucasに師事し、世界一のマジシャンを目指し修行した才藤さん。
現在は、東京でマジックショーに出演したり、テレビ番組やイベントなどでマジックを披露する日々を過ごしています。



(マジックバー・OSMAND
 エグゼクティブ・プロデューサー 高山さん)
「京大出身のマジシャンということで、非常にインテリジェンスが高くて。
 ちょっと普通に考えると、(京大まで行ってマジシャンをしてて)”親は泣くんじゃないか?”っていつも彼には言ってるんですけど・・・。
 才能ももちろんですけども”情熱”がなければたぶん出来ないことだと思いますね。」

(京都大学卒・後輩マジシャン 鈴木さん)
「(才藤さんは)雲の上の存在というか、もう立ち姿やカードの出し方から全部かっこよくて美しくて、そこに憧れました。」


才藤さんにとって、マジックの魅力とは―――

(才藤さん)
「お笑いに例えさせてもらうと・・・。お笑いって結構好き嫌いがあると思うんですよ。”笑い”という感情は好みが分かれますよね。
 (それに対し)”驚き”は、”驚き”というジャンルの1つでしかない。」
「驚いた人間は、急に心の扉を開いてくれるようになるんですよ。すごく強いつながりが生まれる瞬間なんです。」
「そしてマジックには言葉がいらないんです。
 これは、日本に限らず全世界の人間に同じことができると考えれば、これほど強いものはないと僕は思ってます。」


”世界一のマジシャンになりたい”
しかし、その道のりは苦難の連続でした。


(才藤さん)
「(新型コロナの流行で)人が集まれないし、人と人とが会えないという状況でマジックは成立しないので、
 ああいうことが起こると”こんなにも仕事がなくなるんだなあ”と(感じました)。」

マジックが披露出来ない日々が続きましたが、才藤さんは挫けません。

(才藤さん)
「”人生の心配事の7、8割は無駄”という言葉がありまして。その心配事をしてる時間になにか面白いものを生み出したほうがいい。
 僕はひたすら面白いものを作っておこう(と思った。)」


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才藤さんには、マジシャンとは違う別の顔がありました。
――それは、謎解きのプロデューサー。


訪れたのは、タンブルウィード ナゾベース下北沢。



(才藤さん)
「みんなが(謎解きをしていて)頭の中で完結していることが、マジックとして目の前で起こると、
 これはエンターテインメントとして凄くマッチしている、と考えています。」

(タンブルウィード謎解き製作者・小池さん)
「(才藤さんは)エンターテインメントということに関して常に考えているんだな、研究しているんだろうなと(感じる)。
 マジックと何かをかけ合わせたらどうなるんだろう、ということを考えていらっしゃって、すごい(と思う)!」



才藤さんにとって、マジックとは―――

(才藤さん)
「画家にとっての絵具。画家って、自分の思っている世界を表現するのに絵具が必要だと思うんですよね。
 絵具が無ければ、画家は言葉では自分の世界を表現できない。それが、僕にとってのマジック。
 本来、人生には必要のなかったものが、今、僕にとってはなくてはならないものになりました。
 多分、僕からマジックをとったら屍しか残らない、それくらいのものだと思っています。」





#27 古沢勇人(声優)

お~い!元気しちょる?

23年11月1日(水) 20:00

古沢勇人さん(日南市出身)

 

0.1%―――

これは、ある業界で”成功者”と呼ばれる人たちの割合です。

 

港区赤坂のCREATORS HUBにいた今回の主人公、

古沢勇人さんは、日南市出身の声優です。

 

 

古沢さんは、2018年の第2回 キミコエ・オーディションで約12000人の中から準グランプリを獲得しました。

 

(古沢さん)

「嬉しいと同時にもっと頑張らなきゃなっていう。今のままじゃダメなんだなあというのは改めて実感しました。」

 

古沢さんは現在、事務所の声優仲間ユニット『FREVANG』メンバーと一緒に、

YouTubeやSNSで、ラジオや歌などを定期的に配信しています。

 

 

声優を目指すきっかけは?

 

(古沢さん)

「海外の映画が好きだったというのもあるんですけど、(声優を目指し始めた)当時、いろんな人に声をほめられたことで、

 自分の得意な部分・長所というのが、はじめて明確にわかった気がして・・・。」

 

(声優仲間・山田さん)

「(古沢さんは)元気いっぱいで、イタズラをやらかすようなキャラクター」

 

(声優仲間・南須原さん / 声優仲間・林さん)

「やんちゃな弟だね。」「でも、許せちゃうみたいな。」

 

(古沢さん)

「恵まれた環境で育っています(笑)」

 

 

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高校時代、サッカー部の顧問をしていた竹田先生は、古沢さんから将来の話をきいて―――

 

(高校時代の恩師・竹田さん)

「正直、ビックリしました。心の中では、”お前無理だろう”と(思っていた)。

 ”何考えてるんだ”という気持ちでありながら、本人の夢をつぶすわけにはいかないので、

 『持ち前のチャレンジ精神でぜひ頑張ってみろよ』というようなアドバイスはしたかと思います。」

 

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古沢さんは、2020年、アニメ「啄木鳥探偵處」第十二首 星野達吉役でデビュー。

現在は、アニメや外国映画の吹き替えを担当。

中でも、韓国人気ドラマ「愛の不時着」の初級兵士役、クム・ウンドンの吹き替え役に抜擢されました。

 

 

(古沢さん)

「なんで俺なんだろうっていうのが、一番最初に(お話を)頂いたときに思いました。(家族も)すっごい喜んでくれましたね。

 自分の名前がのってるのを見て『泣いて喜んだぞ』って言ったのですごく嬉しかったです。」

 

(声優仲間・山田さん)

「(古沢さんの声は)すごい魅力的だと思います。この4人(FREVANG)で集まった時に、毛色が違う1人なんで。

 響きがあり、ちょっと渋めの。だからみんな羨ましがってますね。」

 

(古沢さん)

「嬉しいですね。親に感謝です。」

 

 

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声優志望者は毎年新たに3万人以上。

プロを目指している人は30万人以上と言われる声優業界。

 

しかし、実際にプロになれるのは300人程。その確率は、わずか0.1%。

その上、人気声優と呼ばれるのは100人程度と、厳しい現実と闘っています。

 

週に1回、レッスンに通う古沢さん。今日も講師の星野さんから指導を受けます。

 

 

受講中、”演じ分け”について古沢さんは・・・

 

(古沢さん)

「(キャラクターが)太めの方だったら、声の重心を下において(演じ分けしている)。」

 

演じる人物に応じて声のトーンや重心を変えているようです。

 

(声優/講師・星野さん)

「(声優で生き残るためには)同じことをやっていても先輩には絶対に勝てないので、先輩がやらなさそうな事を。」

「ブルー・オーシャン(競争相手のいない未開拓の市場)を狙っていく(ことが必要。)」

「声質の幅をひろげることによって、そのオーシャンの数自体を増やしていくことですかね。」

 

(古沢さん)

「(目指している声優の仕事は)アクション系のワイルドな芝居に惹かれることがすごくあったので、そこでやっていきたいなというのはありますね。」

 

――――――――――――――――――――――――

 

高校時代、サッカー部のキャプテンを務めていた古沢さん。

1年生のとき、バセドウ病を発症し、部活を辞めようとしたことがありました。

 

(古沢さん)

「その時に、竹田先生に止めていただかなかったら、多分今の自分はなかったのかなと思います。」

 

古沢さんを救った言葉とは―――

 

”お前ならできる”

 

(高校時代の恩師・竹田さん)

「何よりもまず、その場で一生懸命やれと(声をかけた)。」

 

その言葉が、今の古沢さんを支えています。

 

そして手術を行い、バセドウ病を克服した古沢さん。

 

(古沢さん)

「辞めずに続けたから・・・結果、自分と向き合えたのかなって思いますね。」

 

 

若手声優が集まる舞台の稽古にお邪魔して、古沢さんの印象を聞いてみると―――

 

(声優・順能さん)

「最初は凄く”ウェ~イ”という感じでノリノリな方だと思っていたのですが、意外と丁寧。

 それでいて、ノリが悪いわけでもなく、キャラに乗って話を盛り上げたりもしてくださる方。」

 

 

(声優/講師・永吉さん)

「とにかく素直なところが、一番良いところだと思います。”声優をやる”って、すごく技術力がいるというか。画面を見て、台本を見て、相手役の人の声も聞いて、海外ドラマだったら耳から本国の声を聞いてっていう、いろんなことを一気にやらないといけないので。同じ声優の人たちの芝居を”よく感じる”、そういう感受性が必要なのかなと思います。(古沢さんは)すごくいろんな人の言葉をよく聞くし、そういう意味でとても良いと思います。」

 

――――――――――――――――――――――――

 

古沢さんにとって、声優とは・・・

 

(古沢さん)

「いろんな人に、希望や夢を届けることができる職業なのではないかなと思います。」

 

 

「これからも、いろいろ挑戦することは多いんですけれど、いろんな人の期待を胸に頑張っていきますので、ぜひ応援よろしくお願いいたします!」

#26 立川らく兵(落語家)

お~い!元気しちょる?

23年10月18日(水) 20:00

立川らく兵さん(宮崎市出身)

 

東京・北区にある梶原いろは亭に、今回の主人公の姿がありました。

立川らく兵さん。宮崎市出身で、立川流の落語家です。

 

 

落語は、巧みな話術としぐさが織りなす、伝統芸能。

先月、立川流の真打トライアルと呼ばれる昇格試験がおこなわれ、

らく兵さんは見事、落語家の最高峰である真打昇進を決めました。

 

(後輩)

「現場をお手伝いさせていただいて、直でらく兵さんの芸を見せていただいたときに、

”あ~ここまでならないと真打になれないんだな”と。震えましたね。」

 

(後輩)

「”芸に一途な先輩”という印象ですね。立川流はとても厳しいので。

まず芸が良くないと真打にはなれないので。尊敬できる先輩です。」

 

(立川らく兵さん)

「入門してまる17年ぐらいですかね。見習いから始まって、前座 二ツ目と頑張って、

真打に上がれることになりました。喜びもひとしおです。」

 

宮崎にいる友人も、喜びひとしおです。

 

(高校時代の友人・寺田さん)

「コイツ本当にやったんだなと思って。嬉しいですよ。

東京の友達も、みんな落語を観に行ってるし、私も行けるものならすぐに観に行きたいですね。」

 

らく兵さんは、立川志らくさんの弟子。

一見落語家とは思えないその風貌が、旧日本兵の雰囲気に似ていることが、名前の由来にもなりました。

 

真打昇進の条件は落語100席(種類)以上で、会場を満席にできる人気を身につけることでした。

 

(立川らく兵さん)

「(立川志らく師匠に)一通り落語を聞いてもらった後で、”二ツ目にしておく必要はない”という言い方をされました。」

 

 

 

苦節17年―――

らく兵さんは、師匠の自宅で日々稽古をつんできました。

 

(立川志らくさん)

「弟子は、辞めた弟子を含めると30人くらい来て、今18人か19人残ってるんですけど、

たくさんいる弟子の中で一番骨が折れたというか、手がかかったというか、問題がたくさんあったのは

良いも悪いも含めて、らく兵でしょうね。」

 

(立川らく兵さん)

「骨折り頂き通しの私であります。」

 

――――――――――――――――――――――――

 

元々お笑い好きだったらく兵さんは、福岡の大学を卒業後に上京。

友人とコンビを組んで芸人を目指しましたが、舞台に上がることなく解散してしまいました。

その後、落語家・立川志らくさんが開く塾に通い始め、この世界へ飛び込みました。

 

(立川らく兵さん:2013年撮影)

「他にやろうというものがない。そこしかやりたいものが(ない)。

結局何年か考えたんですけどやっぱりなかったので。」

 

 

 

師匠に、入門当初のらく兵さんについて聞いてみました。

(立川志らくさん)

「私としては普通だったが、周りが結構驚いていましたね。変わったやつが入ってきたぞと。

家元の(立川)談志も彼を初めて見たときにギョッとして”変なやつを弟子にとるんじゃない!コノヤロー”って。

“何でも弟子にすればいいってもんじゃねえだろう”って。話もしてないのに、見ただけで(言っていた)。」

 

 

宮崎にいる友人は落語の世界に入ったらく兵さんをどう感じていたのか―――

 

(高校時代の友人・寺田さん)

「やっぱりコイツ変わっているなと思いました(笑)

変な、シュールでおとなしい、人の目も見ないような落語家になるんだったら”人と違っていいんじゃないか”と思いましたよ。」

 

――――――――――――――――――――――――

 

厳しい徒弟制度の元、見習い→前座→二ツ目→真打と昇進していく落語界。

中でも、立川流の真打昇進の条件はほかの落語団体と違い、都々逸や日本舞踊などの古典芸能ができないと認められません。

 

(立川らく兵さん:2013年撮影)

「1日24時間、それこそ寝てる間も芸のことを考えているくらいじゃないととてもじゃないけど勝負できない世界なんだと。

没頭しなきゃいけないことを楽しめないヤツだったら、この世界には向いてないなというのを教わりました。」

 

入門して真打昇進までの17年。それはそれは波乱万丈でした。

 

二ツ目に昇進するも破門―――

 

(立川らく兵さん)

「(破門といわれた時は)お先真っ暗(だった)。ずっと死ぬまで続けるつもりで入ったので、自分の粗相でそういうことになって

これはえらいことになってしまったという心持ちでした。」

 

師匠・立川志らくさんのご自宅は、家元・立川談志さんの家をリフォームしたものです。

談志さんの書斎は、今も当時のまま。

立川流の伝統は、大切に受け継がれています。

 

らく兵さんにとって、ここでの修行はかけがえのない時間でした。

 

(立川らく兵さん)

「クビになって落語は実際にしゃべる機会はなかった時も、落語を聞き続けたり、師匠が好きな映画を真似して観てみたり

そういうのを続けていました。」

 

(立川志らくさん)

「出禁になって戻ってくるやつはいないですよね(普通は)。

彼の場合は、クビにしようが謹慎にしようが亭号をとろうがなんだろうが、ずっとくらいついてくるという。

それは落語に対する愛情がどっかにあるから、ちゃんと。」

 

 

 

破門後も努力を重ね、1年後 落語家として復帰を果たしたらく兵さん。

何より、師匠の志らくさんからもらった言葉が、心の支えとなっていました。

 

(立川らく兵さん)

「師匠から、”こいつは落語に向いている”というのが(心の支えになった)。」

 

 

師匠・志らくさんに、らく兵さんの落語の魅力を聞いてみると―――

 

(立川志らくさん)

「普通の人間じゃない。極端な話、犯罪者じゃダメですよ、

 普通の真面目な、ちゃんとした人の話を誰がお金を出して聞きたいんだということですよね。」

「落語という本当に馬鹿馬鹿しい、くだらない、だけれども人間の心理をグッとついたような日本ならではの芸能なわけですから。

やっぱりそれを語るには、普通のやつじゃ面白くないんですよね。」

 

 

らく兵さんにとって、落語とは―――

 

(立川らく兵さん)

「命そのものですかね。落語があるから生きている。」

 

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