お~い!元気しちょる?

#19 MINAMI NiNE(ロックバンド)

お~い!元気しちょる?

23年3月1日(水) 20:55

MINAMI NiNE(宮崎県出身)

 

宮崎市の橘通沿いあるライブハウス「LAZARUS」

 

今回の主人公の方とはどんな関係になるんですか?

(主人公の友人)

「10年以上前にやっていた音楽イベントのつながりで仲良くなりました。

 (主人公たちは)いわゆるスリーピース(3人組)バンドとして活動しています。」

(LAZARUSオーナー・圖師さん)

「南国宮崎の雰囲気が分かるような分かりやすい楽曲が特徴かなと思います。」

 

東京・中野サンプラザ。

この地下にあるスタジオにそのバンドの姿がありました。

 

宮崎県出身の3ピースバンド『MINAMI NiNE(ミナミ ナイン)』

 

 

パンクロックをベースにレゲエ・スカなど幅広いジャンルを取り入れたミクスチャーバンドです。

 

ふだんの活動はライブがメイン?

(ヒロキさん/ボーカル・ベース)

「そうですね。ライブと楽曲をリリースして全国をぐるぐる回っている感じです。」

 

メンバーは小林市出身のボーカル・ベース「ヒロキさん(37歳)」

そして・・・

 

(ヒロキさん/ボーカル・ベース)

「ギター・コーラスのワラビノ(37歳・小林市出身)です。15歳くらいからずっと20年以上一緒に音楽やってます。ドラム兼リーダーのスケロク(38歳・日南市出身)さんです。MINAMI NiNEでは最年長のお兄さんです。一番若く見えるんですけど。」

 

2011年東京で結成した『MINAMI NiNE(ミナミ ナイン)』

 

インディーズとしての活動を経て、2018年にメジャーデビュー

ライブには全国からファンが集まります。

 

 

(ヒロキさん/ボーカル・ベース)

「子どもからじいちゃんばあちゃんまで聴けるような曲を作っていこうというコンセプトの元で始まったんで、今もそれをちょっと心のどこかに置きながら曲作りはしてます。

ライブハウスってなかなか父ちゃん母ちゃん世代の人とかは行きづらいなぁというのがあると思うので、“どんどん来てよ”みたいな感じに出来ればいいなーっていう。」

(ギター・コーラス/ワラビノさん)

「子ども連れとかもね。(家族で)遊びに来れるような。」

 

最初にバンドを始めたのはボーカルのヒロキさん

 

(ヒロキさん/ボーカル・ベース)

「中学校の頃にバンド初めて、そのバンドを25歳まで続けたんですけど、18歳の時にワラビノが入って、東京でやっていこうか!っていって。でも25歳で解散して、どうしようかなって思ってたら丁度同じタイミングに解散したバンドのドラマーがいて、宮崎出身やしね!みたいな。」

(ギター・コーラス/ワラビノさん)

「スケロクさんが入って来てくれて“波長が合うな”と思って自然とこうなっていった形があると思います。」

 

こうして結成した『MINAMI NiNE(ミナミ ナイン)』

 

バンド名の由来は?

(ヒロキさん/ボーカル・ベース)

「宮崎にちなんだ名前がいいよねって。宮崎は南九州なのでミナミキュウ...最初漢字で“南九”にしてたんですよね。ただ漢字二文字のバンドなんかちょっと怖いなっと思って。僕たちもこういう…見た目も相まって、じゃあ“九”の部分を英語にしますかってね。」

 

このバンド名について宮崎の音楽仲間は

(友人)

「東京にいってるのに九州・宮崎のことをバンド名に残してくれてるんだと思って覚えやすかったです。」

(LAZARUSオーナー・圖師さん)

「全国ツアーをする動くアンテナショップみたいな感じじゃないですか「MINAMI NiNE」って。宮崎愛が残ってるバンド名だなと思いました。」

 

ふるさと宮崎への想いと共に活動を始めた『MINAMI NiNE(ミナミ ナイン)』

 

 

しかし結成当初は・・・

 

(ヒロキさん/ボーカル・ベース)

「(お客さんは)全然入らなかったですね。地方に行ってもお客さん1人とか。長かったんでその期間が…」

 

それでも辞めずに続けられた理由は?

(ヒロキさん/ボーカル・ベース)

「応援してくれる地元の人たちがおらんかったらどこかでつまずいて辞めてるかもしれんよね。もしかしたらね。」

 

そんなMINAMI NiNE(ミナミ ナイン)楽曲には“ふるさと宮崎への愛”も詰まっています。

 

(ヒロキさん/ボーカル・ベース)

「ほとんどだよね。ほとんどふるさとの事だったり、友達や親。」

(ギター・コーラス/ワラビノさん)

「芋焼酎の宣伝にはけっこう貢献してる気がする。」

 

 

翌日―――3人がやってきたのは渋谷にあるライブハウス。

 

(ヒロキさん/ボーカル・ベース)

「今日は昔からお世話になってる地元の先輩が開催するイベントです。」

 

ヒップホップからパンクロックまでさまざまジャンルアーティストが出演したライブイベント。

会場にはMINAMI NiNEのファンたちの姿が!

 

(ヒロキさん/ボーカル・ベース)

「“来てよかった”“あしたからまた頑張ろう”みたいなライブできればなと思っています。」

 

♪Step(4/19にミニアルバム「INITY」発売)

 

ライブ会場を熱くしたところで・・・

(ヒロキさん/ボーカル・ベース)

「MINAMI NiNEからご報告があります。

 4月からMRT宮崎放送の「わけもん!!」のテーマソングを担当することになりました!」

 

 

そうなんです!

4月から「わけもん!!」は大幅リニューアル!!!

放送時間も夜7時~に変わります。

そんな新「わけもん!!」のテーマソング一足先にお届けします。

 

♪098 わけもんVer

 

(ギター・コーラス/ワラビノさん)

「最初聞いた時は歌詞見てメロディ聞いてちょっと笑っちゃったんですよね。

 全部聞いたらあれ?ちょっと感動してきたって。

 ちょっとサビで元気出るしとか思って。」

 

(スケロクさん/ドラム・リーダー)

「結果的にすごく宮崎をアピールできるような曲になったので良かったな~っていう。めちゃくちゃいいねーってなって。」

 

(ヒロキさん/ボーカル・ベース)

「踏み出そう歩き出そうとする時にふるさとがみんなの背中を押すというか…だからこう

頑張れ!という気持ちになって欲しいなという。」

 

宮崎の音楽仲間からMINAMI NiNEへ

(友人)

「全国各地に宮崎の事を宣伝してくれるそういうバンドなので、たくさん全国各地に宮崎のファンを作ってもらいたいなと。」

(LAZARUSオーナー・圖師さん)

「MINAMI NiNEのみんな!また打ち上げでどんちゃんしたいので早く帰ってきてください。ライブ待ってるよ~!」

 

MINAMI NiNEから宮崎の音楽仲間へ

(ヒロキさん/ボーカル・ベース)

「宮崎帰ったらまたいっぱい飲みましょうね。僕たちが作ったテーマソング楽しみにしちょってください。以上、MINAMI NiNEでした~」

#18 倉沢よしえ(シンガーソングライター)

お~い!元気しちょる?

23年2月1日(水) 20:55

倉沢よしえさん(日向市出身・31歳)

 

東京・高田馬場にある音楽スタジオ。
ここに今回の主人公の姿がありました。

 

 

シンガーソングライターの『倉沢よしえ』さん 、31歳。

 

東京を拠点にライブやYouTube配信などを中心に活動。

メッセージ性の強い楽曲と力強い歌声で人気を集めているシンガーです。

 

こちらで今何をされているんですか?

(倉沢よしえさん)

「今日はアカペラグループ『JARNZΩ』の横浜ツアーファイナルのリハーサルです。

 『JARNZΩ』という北海道出身のアカペラグループなんですけども、サポートという形で今力添えをしてる状態で。」

 

『JARNZΩ』はハモネプで優勝経験がある実力派のアカペラグループ。

よしえさんはサポートメンバーとして参加しています。

この日はライブにむけたリハーサルです。

 

JARNZΩでの活動について

(倉沢よしえさん)

「アカペラに関しては、やっぱり自分が弾き語りでやってた活動と全然違くて、声の出し方もそうですしボーカルとコーラスと全然違いますしハーモニーを重ねるごとに大変だった気持ちが楽しいっていう気持ちに変わったっていう感じです。」

 

よしえさんはどんな人?

(JARNZΩリーダー・ヒデさん)

「男性陣と一緒に歌ってもパワーが凄いんですよ。パワーが負けないボーカリストということで探した時によっぴー(よしえさん)はすごいんですよ。パワーが。」

(JARNZΩボーカル・C.Chanさん)

「歌はもちろんなんですけど、すごく笑わかせてくるんですよね。顔マネとかで。メンバーの顔マネをしてくれるんです。」

 

沖縄の大学を卒業後上京し今都内で一人暮らし。

東京での暮らしは?

(倉沢よしえさん)

「私は結構好きです。程よく放っといてくれる感じがすごい私は心地がいいなと思いますね。でも宮崎があるから東京で頑張れているっていうところがかなり大きいので。お母さんお父さんとか宮崎にいてくれるから東京で頑張れていますね。」

 

住んでいるのは歌ったり楽器の演奏ができる遮音性が高い防音マンション。

この部屋で曲作り・レコーディング・動画配信をしています。

 

 

曲作りはピアノとギターで・・・

これまで作った曲は100曲にものぼります。

音楽に目覚めたのは高校時代だったそうです。

 

(倉沢よしえさん)

「高校の時に『今度文化祭でバンドしたいんだけどドラムがいないんだよね』って言われて、高校2年生と3年生の時に(ドラムを)2回やったんですよ。そこから漠然とドラムをたたくのが好きになってて、大学に進学して音楽のサークルに入ってドラムを叩いててその流れで今度は弾き語りを始めてみたいな流れで音楽を始めました。」

 

(父)

「うれしかったというか、自分のやりたいことをやっと見つけたんだなっていう感じはしました。ただどうゆう方向に行くのかというのはちょっと分からなかったんですけど...」

 

この道で生きていこうと決めたきっかけは“東日本大震災のボランティア活動”でした。

 

 

(倉沢よしえさん)

「仮設住宅を何カ所もギターで歌って回るボランティアをしたんですね。お姉ちゃんと弟と妹の3姉弟がいたんですよ。その子たちの前で歌うっていうのを3日間くらい続けたんですよ。そしたら最後の方には一緒に歌えるようになって、歌ってくれるようになったりとかしてくれてたんですけど...そこの仮設住宅の方が『震災があってからあの子たちの笑顔を見たことがなかったんだけど、今日久しぶりにあの子たちが笑って歌って声出してるところを見ました。ありがとうございます。』と言いに来てくださった人がいて、なんかその出来事はすごく音楽の力を感じたというよりも自分の歌の力をすごい感じることができて、私にしか伝えられないメッセージってもしかしたらあるんじゃないかなみたいな。経験になって、すごく大きなきっかけになりましたね。」

 

3年前から始めたのがYouTubeなどでの生配信です。

現在ライブやCD販売・動画配信等で収入を得ながらメジャーデビューを目指しています。

 

よしえさんはオリジナル曲の他さまざまなアーティストの曲をカバー。

 

 

 

『ファイト!』はファンの働きかけであの中島みゆきさんから公認されているそうです。

 

(倉沢よしえさん)

「驚きの方が大きかったというか、たくさんの方が動いてくださって。すごく大尊敬している方の楽曲をカバーさせていただける機会をもらえたっていうのが自信につながった経験ではありました。」

 

♪『ファイト/倉沢よしえ』

 

(父)

「ライブとかにいくとですよ、応援してくださってる方が温かい声援を送ってくださってほんとに親としては感謝しかないですね。」

 

宮崎のご両親から東京のよしえさんへ

(父)

「これからも自分の信念に基づいて、恥ずかしくないように歌の道を頑張ってください。」

(母)

「頑張って~」

 

よしえさんから宮崎のご両親へ

(倉沢よしえさん)

「お父さん、お母さん。本当にいつも何も言わないで温かく見守ってくれてありがとうございます。東京にいても宮崎に私の活躍が届けられるように頑張りますので、これからも何も言わず応援してもらえたら嬉しいです。いつもありがとうございます。

ほんとに体には気を付けて長生きしてください。」

#17 馬場健(華道家・同志社大学 経済学部3年)

お~い!元気しちょる?

23年1月11日(水) 20:55

馬場健さん(延岡市北浦町出身・21歳)

 

 

今回の主人公は延岡市北浦町出身。

11年前 ひかり児童館でその“道”に出会いました。

 

その道とは・・・『華道』。

 

主人公の師匠である華道家元池坊の夏田勝子先生。

お弟子の主人公はどちらで何を?

(師匠・夏田勝子さん)

「京都の大学に行って、“イケノボーイズ”になっています。」

 

“イケノボーイズ“とは?

 

主人公に出会うため京都へ・・・。

聖徳太子が587年に創建した「六角堂」。

ここ、六角堂は『華道発祥の地』敷地の中に池坊会館があります。

この建物の中で華を生けてる方が今回の主人公、馬場健さん。

 

馬場さんは宮崎の第一高校を卒業し現在同志社大学の3年生。

大学の学業とは別に『華道』を学んでいます。

 

華道の魅力は?

(馬場健さん)

「1ミリ動かしただけで作品全体が変わってしまう所が、難しさでもあり魅力なのかなと思いますね。」

 

 

少しだけ“華道の基本”を教えてもらいました。

 

(馬場健さん)

「やっぱり水際(花器から花が立つ部分)っていうところがあるんですけど、そこが重要になってきて、正面から見た時に水際が綺麗であることが1つの掟というかルールみたいな感じで。花はもうあからさまに角度があるので、向きによって印象が変わってくると思ってて、蕾もどうやって生かそうかなってことは考えながら生けてますね。」

 

京都に来てからは、池坊華道会の徳持拓也先生の指導を受けています。

『先生の指摘を理解し実行する』この繰り返しで上達するんだそうです。

 

先生に馬場さんのことをお聞きしました。

(先生・德持さん)

「21歳の男性でここまで江戸時代中・後期からうまれてきたこの形を工夫しながらまとめていける力があるというのは、大した者だと思いますね。」

 

(馬場健さん)

「これからの稽古で自然と手が動くようになるまで頑張っていけたらなと思ってます。」

 

しかし、なぜ小学3年生の時に華道を始めようと思ったのか...。

(馬場健さん)

「ただ何となくやってみたいなっていう直感なのか分からないんですけど、自分でやってもちょっと不格好な感じになってしまうんですけど、先生がちょっと動かしただけで作品全体が変わっていって、“わーすごいな!魔法使いみたいだな”と思って魔法みたいだなと思ったときにその花の魅力だったりとか、ワクワクしたのを今でも覚えてますね。」

 

っと、ここで思い出すのが夏田先生の一言。

 

「イケノボーイズになってます。」

 

イケノボーイズとは・・・?

(馬場健さん)

「(花を)いけるメンズでイケノボーイズ。“いけメングループ”と言われるやつなんですけど...」

 

【IKENOBOYS(イケノボーイズ)】

元池坊に所属する全国の若手華道家から選抜され結成されたユニット。

馬場さんは2年前からそのメンバーに!

 

IKENOBOYのイベントが開催されました。

場所は京都、舞台は・・・“清水寺”。

陶芸家集団「うつわ男子」とのコラボ企画です。

陶芸家が造った器にあわせてIKENOBOYが花をいける展示会です!

 

馬場さんの作品は“青色の器から深海をイメージ”して生けたんだそう。

 

今回のイベントの一番の見どころは経堂の縁側での生け花パフォーマンス!

陽が落ちてライトアップする中、多くの観客の前で花を生けるのです。

 

 

舞台が舞台なだけに流石に緊張しそう・・・。

 

(馬場健さん)

「まぁ緊張するんですけど、華道してると集中力がすごく高まる瞬間があるなって思って、いて、その瞬間に入れば緊張はなくなると思います。舞台に上がる前が一番緊張するのかなと。」

 

陽が落ちていよいよ本番!

多くの観客が見守る中、イケノボーイズが花を生けます

 

今回は3人でのパフォーマンス。

馬場さんのことを他の2人は?

 

(イケノボーイズメンバー)

「僕は大人になってから生け花を始めたタイプなんですけど、やっぱり小さいころから生け花を習っていた彼は、心もやっぱり穏やかな感じがして素敵な青年だなと思います。」

(イケノボーイズメンバー)

「普段の素振りや性格もすごく優しいので、その優しさが作品にも現れていると思います。」

 

10分間という短い時間で集中して美しい形を作り上げていきます。

多くの見学者が注目する中・・・完成!!!

 

 

馬場さんの優しさが夜の清水寺に美しく映えます。

 

いかがでしたか?

(馬場健さん)

「すごい緊張する舞台でした。でも先ほど言ってた、すごい集中力に入れたので楽しくやれたかなって思ってます。」

 

弟子の活躍に師匠は?

(師匠・夏田勝子さん)

「嬉しいわぁ~。宮崎県はおらんからこういう活躍している人はね。池坊の支部の先生たちが凄く喜んでくれてます。」

 

師匠・夏田勝子さんから馬場健さんへ

「健くん!あなたの頑張りが私の力になってます。京都でも自分がの好きなような花を生けてください。よろしくお願いしま~す!」

 

馬場健さんから師匠・夏田勝子さんへ

(馬場健さん)

「僕がもっともっといい作品を生けていくので、生で見られるように長生きして欲しいなと思います。」

#16 中武兄妹(ラグデザイナー)

お~い!元気しちょる?

22年12月7日(水) 20:55

中武薫平さん(宮崎市出身・27歳) 中武千友梨さん(宮崎市出身・24歳)

 

東京・台東区にあるビル。

ここに主人公たちのアトリエがありました。

 

今回の主人公 中武薫平さん27歳 そして妹の千友梨さん24歳。

中武兄妹が作っているのがお洒落なマット “ラグ”。

 

どうやって作っているんでしょうか?

(兄・中武薫平さん)

「布に手持ちのミシンみたいな機械なんですけど、

 これで糸を打ち付けてラグするっていう方法ですね。」

 

ラグの発祥は北アフリカのモロッコ。

若い女性に人気を集めているお洒落アイテムなんです。

 

 【タフティングガン】と呼ばれる電動工具で生地に糸を打ち込むと表はこんな感じに!

これを型とってラグを完成させます。

 

(妹・中武千友梨さん)

「本当に自分が描いた絵がこうやって立体にフカフカのラグに出来上がるっていうのが一番面白いところだと思います。」

 

薫平さんは約1年前にオリジナルのラグを作る『タフティングスタジオ毛毛』をオープン。

現在スタッフは15人。

オリジナル商品を制作しながらラグ作りが体験できるワークショップも行っています。

デザイナーとしての評価も高い薫平さん企業からのオーダーラグも制作しています。

 

(兄・中武薫平さん)

「PIZZA-LAさんからの依頼で作ったピザの実寸大のラグです。糸を混ぜて打ってるんですけど、よりベーコンとかチーズがリアルになるように色を決めるのが大変でした。」

「これは去年のクリスマスに作ったターキーラグです。」

(妹・中武千友梨さん)

「本当にこれはできる人いないんじゃないかっていう難しさです。」

 

繊細かつ鮮やかな色は“80種類”の糸を組み合わせて表現するんだそうです。

 

(兄・中武薫平さん)

「糸を混ぜることで、ちょっとしたグラデーションを表現する事ができます。

 絵具を混ぜるのとちょっと似てて糸を混ぜて色を作っていくって感じです。

 さっきのチキン(ターキーラグ)に関しては、糸が10色から15色ぐらい。

 焦げや照り感の再現にはこだわりましたね。」

 

こうした技法で県のシンボルキャラクター”みやざき犬”やハロウィンの時には”パンプキンマスク”もラグで制作しました。

その斬新なアイデアとデザインはSNSでも大人気!なんだそうです。

 

スタッフに中武兄妹のことを聞くと・・・

(スタッフ)

「すっごい仲良しです。しゃべらなくてもお互いに思ってる気持ちが分かち合っているという不思議な…」

(妹・中武千友梨さん)

「そうなんじゃないかなぁと思ってます。

 薫平さんは難しいので、みんなの仲介役を私がやってます。」

 

薫平さんは宮崎大宮高校を卒業後、多摩美術大学に進学。

その後スポーツアパレルメーカーでデザイナーとして働いていました。

 

なぜラグ作りを始めたんですか?

(兄・中武薫平さん)

「最初趣味で(タフティング)ガンを海外から輸入して趣味でやってた時に、今パートナーシップを結んでいる【MIYOSHI RUG(大手ラグメーカー)】の代表から連絡がきて、一般の人にもワークショップやりませんか?みたいな話になって会社になったって感じです。」

 

そのころ千友梨さんは大学を卒業して都内の広告代理店で働いていました。

 

(妹・中武千友梨さん)

「その新卒で入った会社で、あぁー辛いなって思って一ヵ月休職したんですね。休職のタイミングで丁度このワークショップのプレオープンみたいな感じで、休職1日目からここに来て手伝いをしてて“ここで一緒にやろうかな”って」

 

(兄妹が)東京で一緒に仕事をしていることについて両親は?

(母)

「まさかまさかのことでした。本当に。」

 

兄妹で良かった面は?

(兄・中武薫平さん)

「仕事が頼みやすいとこはありますね。」

(妹・中武千友梨さん)

「薫平さんをみてて、こう思ってるんだろうなぁはなかなか分からないんですよ普通の人だったら。でも私はそれが分かるんで、そういうことは兄妹っていう感じですね。」

 

デザイン全般を手がける薫平さん。

子どものころから独創的な絵を描いていました。

 

(父)

「色使いが独特で、見たどおりの色を使わずに自分が感じたカラフルな色を使ったりとか。」

(母)

「学校の先生から“空を青で塗りなさい”と言われたことにすごく彼は何でだ?って思ったみたいで。」

 

(兄・中武薫平さん)

「(絵を描くのは)楽しかったんだと思います。」

(妹・中武千友梨さん)

「(薫平さんは)自分にしかできないことをやりたいんです。ずっとそのことしか頭が働いていない。人にはない考え方が頭にあっていろんな人が発見しないことを頭で考えてる。」

 

そんな薫平さんに【わけもん!!】のラグを作ってもらうことに!

 

(兄・中武薫平さん)

「ポイントはロゴの再現度ですかね。平仮名の文字の再現度が難しいかなと思います。」

 

まずはプロジェクターで投影し下書き。

下書きが完成するとタフティングガンで糸を打ち込んでいきます。

果たしてどんなラグになったんでしょうか・・・!

 

完成品はこちら!難しいと話していた“わけもん”のロゴも立体的に表現。

背景も鮮やかな色使いでお見事です。

 

宮崎の家族から東京の薫平さん・千友梨さんへ

(父)

「東京で頑張っているようですね。あんまり一生懸命なりすぎないように頑張ってください。」

(母)

「二人で支え合って仲良くこれからもやっていってくれたら、お父さんお母さんも嬉しいです。」

 

(妹・中武千友梨さん)

「めちゃくちゃ宮崎が大好きで、このラグを通じて宮崎でもイベントしたいなってずっと話してて、出張ワークショップとかしたいなと思ってます。」

 

ご両親へ

(兄・中武薫平さん)

「千友梨さんと二人で、そのほかの東京のメンバーのみんなと一緒に東京で頑張っていきます。」

(妹・中武千友梨さん)

「これからも応援しててね!元気でね。」

#15 日髙沙耶(ハープアーティスト)

お~い!元気しちょる?

22年11月16日(水) 20:55

日髙沙耶さん(国富町出身・25歳)

 

東京・世田谷区にあるライブハウス。

 

今回の主人公は ハープアーティストの日髙沙耶さん。25歳、 国富町出身。

音楽イベントやSNSでのライブ配信などを中心に活動しています。

 

ライブのリハーサルからお邪魔しました。

この日は新曲を披露するライブ。

♪『オフィーリア』

 

沙耶さんの音楽スタイルはハープ奏者では珍しい“ハープの弾き語り”。

 

(日髙沙耶さん)

「ハープの弾き語りってまだメジャーではないんですけど、自分の唯一のモノが欲しくて今の形に私はたどり着いたので...

 ハープってこういう曲もいけるんだ!みたいな感じで楽しんでもらえたらなと思います。」

 

意外なジャンルにも挑戦!

♪『Endrollを笑って観たい』

 

 “ラップ”を取り入れた楽曲なども。

 

(日髙沙耶さん)

「ハープらしさというかクラシックの楽曲とかを考える人が多いんですけど、

 その固定概念を外すっていうことでハープらしくない曲を作ろうというので、

 (ハープと)一番遠そうなラップを選びました。」

 

(観客)

「とにかく多才ですね。なんでも音楽を自分のモノにしちゃう。」

「ラップとかも取り入れててすごく新しいジャンルだなって。」

 

ハープの可能性を追い求める沙耶さん。

大学進学を機に上京し現在東京郊外で一人暮らし。

 

ハープを始めたきっかけは?

(日髙沙耶さん)

「始めたのが10歳なんですけど、4、5歳くらいからハープが身近にあったので...」 

 

きっかけは叔母の古賀鈴子さん(ハープ奏者)

 

(叔母・古賀鈴子さん)

「私が出ているイベントに一緒に出て、ハープを伴奏に歌ったり踊ったりそういうのをさせてました。」

 

幼いころから音楽が大好きだった沙耶さん。

ハープにあわせて歌う内に自らも演奏するようになったといいます。

 

宮崎ではどんなハープ活動をやってたんですか?

(日髙沙耶さん)

「MRTmiccの会場で子ども音楽祭っていうのがあって、それに毎年出たり、

 ストリートでライブみたいなことをしたり、いろんなところで活動してたと思います。」

 

しかし当時はミュージシャンになろうとはハッキリ決めていなかったんだそう。

そんな沙耶さんの背中を押したのは・・・叔母の鈴子さん。

 

(叔母・古賀鈴子さん)

「どうしたいの?って聞いたら『本当は音楽が好きだけど音大はお金がかかる』『親にも迷惑かけるから』という話をしていたんですが、本当に音楽がすきならそんなことを考えずに音楽の道に行ったらいいんじゃないの?という話はしたことがあります。」

 

そして、沙耶さんのお母さんも・・・。

 

(母)

「本人も迷ったんじゃないかと思うんですよ。

 でも本当周りも音楽家が多かったので、本人がそう言うならもう仕方がないかなと思って、なのであとは応援しかないかなというところでしょうかね。」

 

(日髙沙耶さん)

「自分の将来のこととかはわりと選ばせてくれる育て方をしてくれた。

 今音楽活動が出来ているのも母のおかげなので、“母親として尊敬”しているというか。」

 

国立音楽大学へ進学しクラシックの基礎を学んだ沙耶さん。

大学卒業後はエンターテイメントの専門学校に入りボーカルを学びました。

 

曲作り(作詞作曲)はすべて自分で行っています。

作業部屋は自宅と同じマンション内にある防音ルーム。

作曲はハープそしてパソコンを使って行います。

 

自分で曲を作れることがハープ奏者としては大きな強みだと叔母の鈴子さんは話します。

 

(叔母・古賀鈴子さん)

「クラシックは書いてある譜面をそのまま演奏することが多いので、(曲を)作り出す力をハープの演奏に生かして、新しいいろんなタイプに音楽をまたハープを使って演奏してくれるのがうれしいし楽しみです。」

 

曲作りのモチーフは・・・

(日髙沙耶さん)

「ヨーロッパとか北欧とかの海外の伝承をまとめた大きい本を小さいころからずっと噛りついて見てたので、そういうの(海外の伝承)を思い出しながら曲の題材にしたりとかはあります。」

 

ハープに魅了され10年。

10月には初のミニアルバム「Day dreaming」を制作しました。

更にイベントの出演やライブ配信など幅広く活動しています。

 

これからどんな曲を作っていきたいと思っていますか?

(日髙沙耶さん)

「昔のおとぎ話や伝承と現代の人たちをかけ合わせたような曲に私としては挑戦していきたいというところではあるので、そういう曲をどんどん出していけたらなと思っています。」

 

 

宮崎の家族から東京の沙耶さんへ

 

(叔母・古賀鈴子さん)

「これからの演奏活動頑張ってね。応援してます。」

(母)

「体に気をつけて、たくさん食べて、元気で頑張ってください。」

 

宮崎の家族へ

(日髙沙耶さん)

「アーティストとしてたくさん活動していきたいと思っているので、ぜひ私のことを応援していただけると嬉しいです。お互いに元気で頑張っていきましょう!ありがとうございます。」

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