お~い!元気しちょる?

#7 濱田健吾(経営者)
22年3月2日(水) 20:55
濱田健吾(44歳・小林市出身・経営者)
株式会社アクポニ 代表取締役
小松菜、ホウレンソウ、レタスなど、10種類以上の野菜を栽培しています。
神奈川県藤沢市にあるハウス、ちょっと普通と違うのです。
(濵田 健吾さん)
「魚がいるというのが一番の特徴になります。いまここには、ティラピア(アフリカ原産の淡水魚)と錦鯉がいます。」
野菜と魚が一緒に?これはどういうことですか?
(濵田 健吾さん)
「これは、アクアポニックスという農法で、魚を飼育して飼育水を循環させて、栄養豊富な水で野菜を育てましょうという循環型の農業になります。」
濱田さんが取り組んでいるのは、魚と野菜を一緒に育てるアクアポニックス。
アメリカ発祥の循環型農業システムです。
(濵田 健吾さん)
「いま、水槽(いけす)の上で、野菜・ハーブを育てています。下の水槽(いけす)に錦鯉を入れています。仕組みは、魚にエサをあげるとフンをしますよね、通常フンをした水は水換えで捨ててしまうのですけど、フンをしたあとの水をポンプで野菜の方に組み上げているのですね。常に水が野菜の方に供給されています。ここ(野菜の土壌)にあるのが、ハイドロボールという土を焼いて固めたセラミックボールなのですけど、ここに微生物がいっぱい住み着くのですよね、なので、魚のフンを微生物が分解して野菜の栄養に変えてくれます。野菜がそれを吸収して育って。」
魚のフンを微生物が分解し、野菜の栄養分に。そして浄化された水は再び水槽に戻る。循環させることで「もったいない」も無くなるということなのです。
(濵田 健吾さん)
「魚と植物と微生物が共生しているのですよ。小さい生態系をつくっているのですけど、まさに小さな地球がここにある、そういったものですね。」
小林市生まれの濵田さん。幼い時から自然の中で育ってきたといいます。しかも大の魚好き。
(濵田 健吾さん)
「僕、魚屋の長男で、魚釣りが大好きなのですね。釣りばっかりしていて、高校卒業まで、山・川・田んぼで遊んでいました。」
大学卒業後、オーストラリアで2年間、日本語教師を務めた濵田さん。帰国後は、専門商社に入社し、シンガポールやロシアで7年間新規事業の開発に携わりました。
その時の仕事仲間から言われた言葉がターニングポイントになったと言います。
(濵田 健吾さん)
「ロシア人の方に、『本当は魚の仕事がしたかった』と言ったら『今からやればいいじゃん』と言われて、そこで“確かに”“やろう”と思って。」
仕事仲間の言葉に後押しされ、いまの会社を起業。アクアポニックス発祥の地・アメリカを拠点に勉強に励みます。そしてこのシステムを日本でも広めようと、2年前、試験農場を開きました。
ここで育った野菜の味は?
(濵田 健吾さん)
「小松菜いただきます。味は僕が言うとあれなんですけど、日本大学と野菜の成分の共同研究を進めていまして、成分でわかっていることは、野菜の残留窒素が従来の農法と比べて低い、あとはビタミンCがより多いということはわかっています。」
残留窒素が少ないとどうなるのですか?
(濵田 健吾さん)
「野菜の“えぐみ”が少なくなるのですね。生で食べた時に食べやすい野菜になりますね。」
環境にも優しく、美味しい野菜が育つというアクアポニックス。その魅力を広めるため、家庭用のキットも開発しました。
今後期待することは?
(濵田 健吾さん)
「例えば、観光地や飲食店の隣に置いて、そこで育った野菜を食べていただくとか。宮崎出身ですし、地元に貢献したいという想いはすごく強いので、宮崎で導入したいという思いは常にあります。小林はチョウザメの養殖もやってますし、(アクアポニックスも)やってほしいと思っています。」
農場スタッフに濵田さんの人柄を聞いてみました。
(スタッフ)
「アグレッシブな感じですね。もともとの経歴もあると思うのですけど、自分でどんどん考えて行動する方だなと思いますし、見ていて刺激になりますね。」
ふるさとの家族へ
(濵田 健吾さん)
「いつも見守っていただいてありがとうございます。これからも一生懸命頑張っていきますので、よろしくお願いします。」

#6 齋藤麗王選手(プロボクサー)
22年2月9日(水) 20:55
齋藤麗王選手(23歳・日南市出身・プロボクサー)
帝拳ジム所属・スーパーフェザー級
小学校卒業後、ボクシングの強豪・日商学園に進学した麗王選手。
高校時代には3年間で出場できる8つの全国大会のうち、6大会を制覇。
史上5人目の高校6冠を達成しました。
大学時代を含むアマチュアでの成績は、70勝11敗。
去年2月プロテストに合格しました。
ボクシングの魅力は?
(齋藤麗王選手)
「1試合のために減量とか1か月くらいかけてやって、集中してやるので、1つの勝利に対してやりきる、その達成感。」
プロとしての心構えは?
(齋藤麗王選手)
「勝つことが第一。そこで誰かのためにとかではなくて、自分のために1つの勝ちを取ること。その中で応援してくれる方たちが喜んでくれたらうれしい。」
トレーナーを務めるのは、元世界二階級制覇王者・粟生隆寛さん。
麗王選手はどんなボクサーですか?
(粟生隆寛さん)
「一番はパンチ力。僕もアマチュア出身で、高校タイトル6個取っていて同じなんですよ。僕が世界タイトル取っているので、そういうトレーナーが教えているという注目も浴びると思うので、やっている以上、世界は狙わせたいですし。」
その思いは麗王選手も同じでした。
(齋藤麗王選手)
「世界チャンピオン。世界一になれるのか知りたい。自分が。」
目指すは世界の頂点。
その強さを物語るものが日南市の実家にありました。
父・孝志さんと一緒に4歳から空手を始めた麗王選手。
小学校を卒業するまで数々の大会で優勝してきました。
中でも印象に残っている大会は…
(父・孝志さん)
「これが初めて手にしたトロフィーですね。悔しく泣いてもらったのを覚えています。」
この準優勝のトロフィーが麗王選手の原点。
(父・孝志さん)
「負けず嫌いで、ジャンケンひとつでも負けるのが嫌だと。」
小学6年生のとき、目標にしていた空手の全国大会で優勝。
これを機に空手からボクシングの道に進みました。
(父・孝志さん)
「ボクシングに至るまでに、キックボクシングを5戦くらいさせた時に、本人が生き生き、こっちのルールの方が自分に向いていると言っていたので、日本一になって空手に一旦ラインをひこうと。」
実は、父・孝志さん、ボクシングの元国体選手。
その影響もあり、麗王選手も中学生からボクシングの世界へ。
高校では6冠を達成。
当時の目標は?
(高校生3年当時の齋藤麗王選手)
「東京オリンピックに出場することと、メダル獲得が一番の目標になると思います。」
東京オリンピックを目指し、大学はボクシングの名門・東京農業大学へ進学。
3年生のとき、東京オリンピックの代表選考を兼ねた大会の九州予選に臨みます。
しかし…
(齋藤麗王選手)
「九州予選のときに、左目を思い切りカットして、バッティングでカットして途中判定になってしまって、勝っていても試合できないくらい切れてしまって。」
(父・孝志さん)
「夢ってこんな形で終わるの?というのがすごくショックというか、こんなにもろい終わり方だったんだ…と思った。最後まで残ったとか、最後やっぱり届かなかったとかではなくて、そこでその道は終わったというのは、はかなさというか。」
(齋藤麗王選手)
「それも運ですよね。それも運命なのではないかなと思いますし。その時に大学を辞めようと思ったんですけど、先輩のつてもあって帝拳ジムに。」
大学を中退し、アマチュアからプロの世界へ。
世界王者という新たな夢へと舵を切りました。
しかし、コロナ禍の影響もあり、プロデビュー戦は未定。ファイトマネーもありません。
そのため、アルバイトで生計を立てています。
世田谷にあるパーソナルジムでトレーナーをしているのです。
(齋藤麗王選手)
「試合だけでは食っていけないので、最初は。コミュニケーションとりながらやれる環境に携われているので。」
麗王選手は女性客にも大人気。程よい気分転換にもなっているようです。
アルバイトを終え、帝拳ジムへ。
この日は久しぶりのスパーリング。
今日の反省点は?
(齋藤麗王選手)
「打ちにいきすぎる自分がいるので、それが無駄というか、今日はどちらかというと、出してきたところにとか、プレッシャーかけながら打つというところが前よりは冷静にやれたかな。」
夜8時30分。ようやく帰宅。
(齋藤麗王選手)
「洗濯物干して、食事であっても、自炊しても親の飯にはかなわない。」
麗王選手のお父さん、息子を東京に送り出すとき伝えたことがありました。
(父・孝志さん)
「支えてくれている人たちがいるという感謝の気持ちを忘れないように、ということは伝えましたね。一人ではないということですね。」
お父さんはどんな存在ですか?
(齋藤麗王選手)
「お父さんと言うより師範ですね。かっこいいお父さんです。」
2人で飲んだりしますか?
(父・孝志さん)
「勝ったらですね!祝杯がいいですね!」
日南のお父さんから東京の息子へ
(父・孝志さん)
「麗しい王の名前のごとく、ボクシング界でも王になってください。期待しています!押忍!」
(齋藤麗王選手)
「しっかり教育してくれてありがとうございます。これからももっと高みを目指して頑張りますので見ててください。」

#5 メイン平選手(ラグビー選手)
22年1月12日(水) 20:55
メイン平選手(21歳・宮崎市出身・ラグビー選手)
リコーブラックラムズ東京(東京)所属
2020年10月入団 ポジションはフルバック
リコーブラックラムズ東京は、ラグビートップリーグに替わり2022年1月に開幕したジャパンラグビー「リーグワン」の参入チーム。
1部~3部の24チーム中、上位12チームが争う1部リーグに属するチームです。
ブラックラムズはどんなチームですか?
(メイン平選手)
「スーパースターはあまりいないのですけど、一人一人がハードワークして泥くさくプレーするのがリコーのスタイルです。」
日々の練習で意識していることは?
(メイン平選手)
「常に100パーセントでやるというのはもちろんなのですけど、自分の中で小さい目標というのを練習前に2つから3つ立てて練習に臨むようにはしています。きょうは、試合に向けてコミュニケーション、相手がどういうプレーをしてくるか予測して後ろからトークするということと、攻撃のスペースを探し見つけるということを目標にやりました。」
ラグビー大国ニュージーランド出身の父をもつ平選手。お姉さんと一緒にラグビーを始めました。
(父)
「5歳くらいの時、相手にタックルした。“おーナイスタックル平”。次は同じチームの仲間にもタックルした。かわいかったね(笑)」
その後も、小学生、中学生と、宮崎ラグビースクールでラグビーに打ち込みました。
(メイン平選手)
「ラグビーはめちゃくちゃ好きでしたね。学校から帰ってからも動画とかでラグビー見てたので。」
そして高校は両親の勧めもあり、奈良県のラグビー名門校・御所実業に進学。
(メイン平選手)
「(御所実業は)監督に言われてやるのではなくて、選手たちが自分たちで練習メニューを組み立てて、自分たちの足りないところを自主的にやるというスタイルがすごく好きで、
そこに魅かれていきましたね。」
御所実業では、高校1年生で花園デビューを飾り、見事ベスト4入り。高校ではラグビー以外のことも学んだといいます。
(メイン平選手)
「人間性の部分ですね。寮生活だったので洗濯も自分でやるし、食器洗い、ごはんを炊いたりも全部自分でやってたので、見えないことに感謝することも学びましたね。」
そして、高校3年生のときには国際大会にも出場。
(メイン平選手)
「しんどい練習が多くて途中でやめたいなと思ったこともあったのですけど、実際に出場してみて、1試合目で脳しんとうになって残りの大会出れなかったのですけど、他の仲間たちが勝ってくれて銅メダルがとれたので。」
「若いうちから世界の舞台に立って試合ができるというのはあまりないので、それは今に活きているかなと思います。」
高校時代から注目されていたメイン平選手。強豪大学からの誘いもありましたが進学はしませんでした。選んだ道は父のふるさと・ニュージーランドへのラグビー留学。
(メイン平選手)
「小さい時からの夢だったのでニュージーランドでプレーすることが。レベルはもちろん高いので、自分のためにもなるし、修行というか、チャレンジしてみたかったですね、どこまでできるのかというのを。」
しかし、ラグビー大国・ニュージーランドの壁は想像以上に高かったといいます。
(メイン平さん)
「もっとニュージーランドで活躍できるかなと思っていたのですけど、いきなりラグビーのレベルの高い国に行って自分を表現してみんなに知ってもらうのは時間がかかるということも学びましたし、ラグビーのレベルが高かったので難しかったですね。」
息子の挑戦についてお父さんは。
(父)
「ニュージーランドでラグビーをやりながらいろんなアルバイトをしていた。学校の掃除とか色んな仕事をしていた。高校から直接大学やチームに入っていたらラグビーをできる環境が当たり前になる。今ならわかるはず、普通の仕事がキツいということも。」
2020年10月、リコーブラックラムズに入団した平選手。
スタメンレギュラーを目指し、練習に打ち込んでいます。
チームの同期・西川大輔選手に印象を聞きました。
(西川大輔選手)
「センスあるプレイヤーだと思っていて、パスやキック、アタック(攻撃)も瞬時に何をするかの判断だったり、すごいプレイヤーだと思います。」
(メイン平選手)
「僕は2年目なので、仲間からの信頼を得るってことと、今シーズン終わったあとに、やり切ったなと思えるシーズンにしたいと思っています。」
宮崎の家族からは。
(父)
「スターティングフィフティーンに入ることができれば嬉しい。トライできればもっと嬉しい。」
(姉)
「プレッシャーとか感じずにのびのびとプレーしてほしい。」
息子の活躍を期待するお父さん。平選手とって一番の理解者です。
(メイン平選手)
「優しい父なのですけど、ラグビー関してはいつもそばにいてくれてすごくいい声かけをしてくれるので、いいコーチですね。」
これからの夢は?
(メイン平選手)
「日本代表にはなりたい、目標でもあるので。ラグビーワールドカップとか大きな舞台に出たいというのが目標です。」
宮崎の父から東京の息子へ。
(父)
「Go!Taira!Do your best!宮崎の人たちみんな応援するよ!だから頑張って下さい。
(メイン平選手)
「いつも応援ありがとう。また頑張るのでこれからも宜しくです。」

#4 sakkoさん(シンガー)
21年12月1日(水) 20:55
sakkoさん(国富町出身・シンガー)
レゲエバンドONE GRAM(ワングラム)ボーカル
ONEGRAMは、レゲエを基調にジャズ・ソウル・ディスコなどのエッセンスを取り入れ、都会的でメローなサウンドが特徴。若者のまち渋谷でクラブやライブハウスを拠点に活動している注目のバンドです。
sakkoさんは幼いときから歌うことが大好きだったと言います。
(sakkoさん)
「小学校入る前やったと思うんですけど、祖母が歌いなさいって、地元の敬老会で歌いなさいって言われて歌った。ティッシュにくるんだお金がいっぱい飛んできました。」
歌い終わったときの拍手が忘れられず人前で歌うことにハマったのだそうです。
そして、高校生の時、人生を決定付ける音楽に出会いました。
(sakkoさん)
「もともと私の地元の先輩とか幼馴染のお兄さんたちがレゲエというレコードを回したりするサウンドをやっていたりして、自然に身についたというか入ってきたというか」
レゲエの魅力は?
(sakkoさん)
「ゆるさ。一番聞いていられる。歳とってからもずっと聞いていられると思う。」
高校卒業後、1年間アルバイトをしてお金を貯め、19歳で上京。
プロのミュージシャンになるため、東京での生活を始めます。
(sakkoさん)
「音楽やりたいからというので、いま東京にとどまっている理由も音楽なので、音楽をやっている人たちも多いし楽しい。」
「(上京するとき、母は)私が、何を言われても聞かないと思っていたのでしょうね。行きたいなら自分でどうにかして行けば…みたいな感じだったと思う。」
大都会で諦めずにやってこられた理由は?
(sakkoさん)
「人に恵まれたのだと思います。やっぱり周りの人たちに、ONEGRAMのメンバーもですし、要所要所ですごい人に恵まれたと思っています。」
レゲエへの熱量は誰にも負けないというsakkoさん。自分自身が楽しむことが一番。
『Jaga Jaga』は地元宮崎への思いを込めて作った歌です。
(sakkoさん)
「地元の宮崎とジャマイカをリンクさせて、似ている感じがあるので、太陽の下で歌って遊べ!みたいな感じで書いたのだと思う」
4年間に行った地元・国富町でのライブは忘れられないといいます。
(sakkoさん)
「一番最初に歌いなさいって言ってた祖母が4年前くらいに亡くなったのですけど、祖母が亡くなる半年前くらいに国富でライブをやっていて、祖父母も見に来てくれたのですけど、私が生でバンドをやっているのを見た最初で最後になってしまった。でも見せられてよかったと思って。」
Sakkoさんの活動拠点は渋谷。メインストリートから少し離れた界隈はクラブやカフェが並ぶお気に入りのストリートです。
(sakkoさん)
「ここが自分たちが2か月に1回レギュラーイベントを開催しているクラブです。今年は結構ずっと出来なくて、去年もですけど、やっと最近再開した感じです。」
渋谷の魅力は何ですか?
(sakkoさん)
「若者のまちというイメージもありますけど、渋谷に根付いているカルチャーというか、音楽の先輩もたくさんいますし、刺激の街でもあるかもしれないです」
渋谷の街と人がsakkoさんを育ててくれています。
これからの夢は?
(sakkoさん)
「海外でもライブをやりたい。もちろん、国内も行っていないところがたくさんあるので、いろんなところに歌いに行きたい。ONEGRAMというバンドを知ってもらいたい。」

#3 吉野北人さん(THE RAMPAGE FROM EXILE TRIBE)
21年11月10日(水) 20:55
吉野北人さん(24歳・小林市出身・THE RAMPAGE FROM EXILE TRIBE)
THE RAMPAGE FROM EXILE TRIBEのボーカル担当。
2017年にメジャーデビュー。
翌年には俳優デビューを果たし、映画で主演も務めました。
そんな吉野さんは小学校の頃から歌うことが大好きだったんだそうです。
(吉野北人さん)
「小さいころから歌は大好きで、家族の前とかおばあちゃんの前で歌ってたりしてはいたんですけど、本格的に歌をやろうと思ったのは高校生の時にEXILEみたいになりたいと思って、本格的に歌手になろうと思いました。」
そして、EXILEが所属する事務所主催のオーディションを受けることを決意。
歌の練習をしていた場所は?
(吉野北人さん)
「地元のメロディというカラオケ屋さんに毎日行っていました。毎日録音して、それを聞いて、自分なりに練習しました。」
オーディション会場の大阪までは両親が付き添ってくれました。
(吉野北人さん)
「歌っているときに緊張して押しつぶされそうだったんですけど、親がここまで送ってくれたということもあるし、無駄にしたくないという想いで、一生懸命歌おうと思った。本当に支えられたなという感じ。」
17歳のとき、見事、3万人の中から選ばれ、RAMPAGEのボーカルとしてデビューを果たしました。
(吉野北人さん)
「デビューする前が一番大変でした。いろんな面で、15人のメンバーについていくのも必死でしたし、宮崎と東京という環境の違いも大きかったので、いろんなギャップに押しつぶされそうになりましたけど、諦めずにがむしゃらにやっていたらデビューにたどり着いて今こうやって活動できているので、諦めずに頑張って良かったと思います。」
「EXPGスタジオ宮崎」のダンスインストラクター・K-SUKEさんに、吉野さんとの思い出の場所を案内してもらいました。
ここはダンススタジオの中にあるボーカルルーム。
(K-SUKEさん)
「ここは北人と一緒によく話をしたり、夢語ったり、音楽について話したり、二人でここで筋トレとか腕立てとかをやっていましたね、当時。歌はすごく練習していました。1日中この部屋で朝から夜までずっと練習していたと思います。大人しいけど芯はしっかりしているんですよ。負けず嫌いな部分がめちゃくちゃあって、そこはずっと感じていました。いつか、ブレずに成功してもらいたいなというのはずっと思っていました。」
大人気のグループの中で活動の幅をどんどん広げている吉野さん。
歌、踊り、演技、表現する上で心がけていることは?
(吉野北人さん)
「こういう風にしたら伝わるかなとか、こういう風にした方がもっと入りやすいかなとか、常に人目線でいることで感情も入りやすいですし、一番は人の目線というところを、何をしたら喜んでくれるだろうというところを意識しています。」
歌手に俳優と、幅広く活躍する吉野さん。
ふるさと小林の思い出は?
(吉野北人さん)
「散歩が好きで、散歩とかよくするのですけど、ふと空を見上げたときとか、街中でキンモクセイの香りがすると当時の記憶がよみがえってくるというか。小林は星空がすごくきれいで、ぼくは当たり前だと思っていたのですけど、小林に運動公園があるのですけど、そこが結構高台になっていて、すごい星空がきれいに見えるのですけど、夜とか一人で階段あがって星空を眺めていましたね。」
ふるさと小林の自慢は美しい星空。
EXPGスタジオ宮崎のK-SUKEさんにも思いを語っていました。
(K-SUKEさん)
「彼がRAMPAGEのメンバーのみんなを小林に一度連れてきたいという話を僕にしてくれていて、小林の星をみんなに見せたいんですよと言われて、その時グッときて、彼の純粋さに感動して。純粋なままアジアを代表するアーティストになってもらいたいと思います。」
吉野さんは。
(吉野北人さん)
「どれだけいい環境で育ってきたのかということを実感したので、宮崎のきれいなものや自然をメンバーにも見てもらいたい。自然のパワーって本当にすごいので、悩みもちっぽけに思えてしまうので、小林の星をメンバーと一緒に見ることに意味があると思うので、いつか見たいですね。」
吉野さんにとってK-SUKEさんはどんな存在ですか?
(吉野北人さん)
「アーティストとしての歌やダンスのスキルもそうですけど、人としての在り方というか人間的な部分をすごく教えてもらったので、K-SUKEさんには感謝しています。」
K-SUKEさんは?
(K-SUKEさん)
「僕は友達と思っているんですよ。頑張っている友達に僕もパワーをもらう。彼がキラキラしていると自分も負けたくないし嬉しいし頑張らなくてはいけないと思うから。」
ダンススクールの生徒さんたちからも嬉しい贈り物が届きました。
(吉野北人さん)
「嬉しい。今できることを一生懸命やって夢に少しでも近づけるように頑張ってもらえたらと思います。だから僕も、皆さんが頑張れるようにしっかりと活躍して大きな背中として見せられるように頑張りますので、お互い一緒に頑張ってきましょう。ありがとうございます。」
最後に宮崎のみなさんにメッセージを。
(吉野北人さん)
「僕もこれからの活動を通して宮崎にたくさん恩返しをしたいですし、僕が活躍することによって宮崎もきっと盛り上がると思うので、一生懸命いまの仕事と向き合って頑張っていきたいと思いますので、こういう大変な状況ですけど一緒に頑張っていけたらなと思います。温かい応援よろしくお願いします。」
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