#47 磯田泰成(ラグビー選手)

お~い!元気しちょる?

25年7月2日(水) 20:00

磯田泰成さん(延岡市出身)

 

 

―――抽選。

 

高校ラグビーのトーナメント戦において同点だった場合に行なわれるそれは、

ノーサイドの精神に基づいたルールとして、これまで何度もドラマを生んできました。

 

15年前、高校生ラガーマンあこがれの地、”花園"への切符も、抽選に委ねられることになりました。

 

(磯田選手)

「(当時は)なかなか立ち直るというか、切り替えることはできなかったので、しばらくは引きずっていました。」

 

負けではない、しかし、花園には届かなかった。

その日、仲間と共に涙を流した選手の現在とは―――。

 

―――

 

2025年5月、完成したばかりのクロキリスタジアムで行なわれたのが、

『ラグビーリーグワン』キューデンヴォルテクスVSブルーシャークスの試合。

 

球技として初めて開催された、杮落としの試合でファーストトライを奪ったのが、

延岡出身のウイング、磯田泰成選手。今回の主人公です。

 

 

(磯田選手)

「最高ですね。

 こういった素晴らしいグラウンドで、こけら落としで最初のトライをとるのはすごい光栄なことだし、

 私は高校まで宮崎でラグビーをして、宮崎に育ててもらったので、地元で試合をして、

 恩返しができたかなという風に思っています。」

 

この日は、まさに一進一退の咬合。

キューデンヴォルテクスがラスト1プレーで同点に追いつく展開に、4600人を超える観客は大いに沸きました。

 

―――

 

福岡市に、日本最高峰のラグビーリーグ『リーグワン』で戦うチームがあります。

それが、九州電力キューデンヴォルテクス。

 

1951年の創部以来、九州ラグビーの草分け的存在として活動を続け、

現在は『リーグワン』ディビジョン2で戦う九州唯一のチームです。

 

そんなチームで、磯田選手はグラブキャプテンを務めています。

 

(監督・村上龍寛さん)

「(磯田選手は)選手の中のリーダー。野球でいう選手会長みたいな役割をしてくれていて、

 選手の中で悩み事などがあった時に、彼がしっかりと解決してくれています」

「真面目ですね。根が真面目。」

 

(チームメイト・松下選手/中尾選手)

「(磯田選手は)真面目だと思います。真面目じゃないとクラブキャプテンできない。」

 

(磯田選手)

「(クラブキャプテンになるまで)特に役職もなく、自分のラグビーを中心にのびのびやらせてもらえてたんで、

 最後、今、ベテランになって、チームに還元できるところはしっかり還元していきたいなと思っています。」

 

現在32歳の磯田選手。チームの中ではベテランと呼ばれるポジションになってきました。

 

(磯田選手)

「私が一番上ですね。ウイング(というポジション)では一番上です。」

「全員後輩なので、突き上げられています(笑)」

 

 

真面目な磯田選手。しかしこんな一面もあるそうで・・・

 

(チームメイト・松下選手)

「(磯田選手は)忘れ物がすごく多い。そこはちょっとギャップがあるかもしれない。」

 

(磯田選手)

「財布忘れた、携帯忘れた、処理忘れた、、、何かしら忘れてますね。妻にもいつも怒られています」

 

九州電力の社員として、仕事とラグビーの両立をする磯田選手。

 

(磯田選手)

「(夕方)4時半まで仕事して6時から練習の日と、昼の12時まで練習して2時半から仕事の日に分かれています。」

「私は今、人材活性化本部で仕事をしていて、基本的に人事労務系の仕事をしています。」

 

そんな、仕事とラグビーに忙しい磯田選手を支えてくれているのが、妻と2人の子どもたち。

子育てに追われている磯田家。しかし、磯田選手はなかなかの”イクメン”なようで―――。

 

(妻・萌子さん)

「どんどん家事レベルも上がっていっていて...料理も、すごい”家で作ったの?”ってものをどんどん作っていくし、

 (外に)出てきていいよって言われて帰ってきたら子どもたちも寝てるし部屋もピッカピカだし・・・

 ちょっと、引くレベルで(笑)」

 

(磯田選手)

「たぶん、仕事とかラグビーより、家事の方が得意かもしれないですね(笑)」

 

 

―――一方で、こんな不安も。

 

(妻・萌子さん)

「耳がちぎれて帰ってきたことがあって...その時に初めて危機感を覚えて。”このスポーツやばいかも”って。」

 

会社員として、父として、そしてラグビー選手として忙しい日々を送る磯田選手。

しかし、こんなにラグビーを続けるとは、思っていませんでした。

 

磯田選手の出身は延岡市北浦町。漁師をしていた家庭に生まれました。

 

(磯田選手)

「両親はもともと漁師をしていて、私も海に出て家の船にのって、網を引いて・・・上半身はそれで鍛えて...。

 スポーツは、最初に柔道を始めて、小学校4年から野球部に入って中学まで続けたんですけど、

 高校からはラグビーを(始めました)。」

 

それまで縁のなかったラグビーの世界に磯田選手を導いた人が、延岡にいます。

その人が、高校時代の恩師、西埜さんです。

 

(恩師・西埜さん)

「磯田の親戚に知り合いがいて、(磯田選手が)高校に入る時に、”高校で野球を続ける”と聞いていたんですけど、

 とにかく(磯田選手は)強さというか、線は細いんですけど腰が強くて、スピードがあって、

 こういう子がラグビーしたらどんな風になるのかなと、一生懸命勧誘して、なんとか入ってもらいました。」

 

西埜さんの見込み通り、初心者ながら1年生の終わりからメンバー入りした磯田選手。

当時の延岡星雲高校は、県内屈指の強いチームになりました。

 

(恩師・西埜さん)

「彼が3年生の時には、新人戦から花園予選まで、一度も県内では負けずに終わりました。」

 

しかし、高校最後の試合となった、第90回 全国高校ラグビー宮崎県予選の決勝、

花園出場をかけた日向高校との試合は、思いもよらない結末を迎えることになります。

 

日向高校がリードする展開で迎えた終盤、ラストワンプレーで延岡星雲が追いつく劇的な展開で、結果は”両校優勝”。

 

花園に進むチームを決めるため、抽選が行われることに。

 

―――抽選の結果、日向高校が花園への切符を手にしました。

 

 

負けではない。しかし花園には届かなかった。

その経験は、磯田選手のその後の人生にも影響を与えました。

 

当時監督を務めていた西埜さんは、当時をこう振り返ります。

 

(恩師・西埜さん)

「もう、思い出すと、なんかいろんな感情が沸いてくるんですけど...

 最後に円陣を組んでみんなで讃えあって...。残念でしたけど。それが、彼の高校時代最後の試合になりました。」

 

(磯田選手)

「(当時は)なかなか立ち直るというか、切り替えることはできなかったので、しばらくは引きずっていましたし、

 ただその時にまだラグビーを続けるか続けないかは、最後の最後に大学に行くところまで悩んでいたので、

 花園に行けて燃え尽きていたら、もしかしたら大学に進んでラグビーを選んでいなかったかもしれないし、

 そういった悔しさがあったから、もう一度ラグビーを頑張ろうという気持ちになりました。」

 

その想いを胸に進んだ帝京大学では、大学対抗戦で3年連続トライ王になるなど活躍。

複数のチームから声がかかった中で、現在所属しているキューデンヴォルテクスへの入団を決めました。

 

(磯田選手)

「宮崎が好きですし、九州が好きという想いがあったので、

 九州に戻ってラグビーがしたいという思いが強くありました。」

 

 

”お~い!元気しちょる?”

 

 

延岡にいる恩師・西埜さんから霧島焼酎の贈り物。

 

西埜さんからのビデオメッセージを見て、「(当時の厳しい先生から)仏のような先生になった」と笑顔の磯田選手。

 

 

(磯田選手)

「お酒は好きなんですけど、シーズン中は飲まないようにしています。」

「安定の霧島で・・・。いつも飲んでる味です・・・!」

 

「まだまだ身体が動く限りはラグビーを頑張って、宮崎を盛り上げていきたいと思いますので、

 引き続き応援よろしくお願いいたします!」

 

 

地元延岡の心暖かい応援を胸に、磯田選手の活躍はまだまだ続きます―――。